アメンバーリメンバー九州旅 ⑰
長崎港より南西約19kmの海上に位置する“軍艦島(端島)”は
周囲約1,2km、面積約6,3haの小さな海底炭鉱の島で
江戸時代後期に石炭が発見されて以来
明治3年(1870年)に開抗
明治23年(1890年)に本格的な海底炭鉱として繰業を開始し、炭鉱従業者が生活する島となりました
海面下1,000m以上の地点にて
気温30℃、湿度95%、急勾配でガス爆発などの常に危険と隣り合わせの悪条件のもと
約1,570万トンもの石炭を採掘し
約100年に渡って日本エネルギーを生産し続けてきたとされています
採掘技術の発達とともに
6回にわたって護岸堤防の拡張を繰り返し、現在の島の形状になったそうです
(約3分の2が埋め立て地とされています)
岸壁が島全体を囲い、高層鉄筋アパートが立ち並ぶその外観が軍艦“土佐”に似ていた事から“軍艦島”と呼ばれるようになりました。
当時は学校や病院、商店、映画館やパチンコなどの娯楽施設を設け、日本初の屋上菜園をされた場所でもあり
炭鉱は24時間繰業のため不夜島
常に明るく、笑い声や活気にあふれた場所とされています
昭和49年1月に閉山。同年4月に無人島になったみたいです。













世界遺産暫定リスト入りされていますが
かつての高度な建築技術には
現状において建物崩壊を守る手段がないらしく
今もなお建物が崩れているみたいです。
台風で崩れた…
3日前に壊れた…など
リアルな現状を目の当たりにしてきました。
今は“第1、第2、第3見学広場”からしか島内の見学不可
かつて5300人が住み、当時の東京都の9倍の超高密度だったみたいですが
今は鳥の住みかになっている様でした

常に死と隣り合わせで
何かのために命をかけて働く…
探炭に向かう本人も
待つ家族も
精神的にも肉体的にも
キツかっただろうな…
そんな時代
そんな場所があった事に
これからの時代のためにも
遺してほしい場所だと思いました。
つづきます
ではでは。
周囲約1,2km、面積約6,3haの小さな海底炭鉱の島で
江戸時代後期に石炭が発見されて以来
明治3年(1870年)に開抗
明治23年(1890年)に本格的な海底炭鉱として繰業を開始し、炭鉱従業者が生活する島となりました
海面下1,000m以上の地点にて
気温30℃、湿度95%、急勾配でガス爆発などの常に危険と隣り合わせの悪条件のもと
約1,570万トンもの石炭を採掘し
約100年に渡って日本エネルギーを生産し続けてきたとされています
採掘技術の発達とともに
6回にわたって護岸堤防の拡張を繰り返し、現在の島の形状になったそうです
(約3分の2が埋め立て地とされています)
岸壁が島全体を囲い、高層鉄筋アパートが立ち並ぶその外観が軍艦“土佐”に似ていた事から“軍艦島”と呼ばれるようになりました。
当時は学校や病院、商店、映画館やパチンコなどの娯楽施設を設け、日本初の屋上菜園をされた場所でもあり
炭鉱は24時間繰業のため不夜島
常に明るく、笑い声や活気にあふれた場所とされています
昭和49年1月に閉山。同年4月に無人島になったみたいです。













世界遺産暫定リスト入りされていますが
かつての高度な建築技術には
現状において建物崩壊を守る手段がないらしく
今もなお建物が崩れているみたいです。
台風で崩れた…
3日前に壊れた…など
リアルな現状を目の当たりにしてきました。
今は“第1、第2、第3見学広場”からしか島内の見学不可
かつて5300人が住み、当時の東京都の9倍の超高密度だったみたいですが
今は鳥の住みかになっている様でした

常に死と隣り合わせで
何かのために命をかけて働く…
探炭に向かう本人も
待つ家族も
精神的にも肉体的にも
キツかっただろうな…
そんな時代
そんな場所があった事に
これからの時代のためにも
遺してほしい場所だと思いました。
つづきます
ではでは。










































