アトランティスがアメリカにあったと考えるのは、ヘラクレスの実在を信じていないのに、ヘラクレスがジブラルタルまで行った、という神話だけは信じる、というような話だ。
例えばエフェソスにはヘラクレスの門がある。
ジブラルタルの柱も、門と呼ばれている。
リュディア地方はヘラクレス朝が支配していた時期があり、この時代にヘラクレスの柱が作られていて、他にも柱を二つ合わせて門と呼ばれていたとすれば、小アジアの人からすれば、ヘラクレスの柱の向こうというのは、エーゲ海となる。
プラトンは人伝ての話を記録しているだけだ。
プラトンから見て柱の向こう、と考えるから、話がややこしくなる。
トロイア戦争に負けたトロイア人が、ヘレンを見て、これだけの美女が原因だったのなら仕方ない、と言った、とホメロスは書いている。
ギリシア中の英雄が、ちょっとした美女にこぞって求婚した、というのも不思議な話だ。
むしろテセウスの人質となって箔(はく)がついた、という事だったのかもしれない。
そこがテュンダレオース王の狙いだったのかもしれない。
ヘレンはディオスクーロイにアテナイから奪還されるが、この頃のテュンダレオース王とディオスクーロイは、とても一枚岩だったとは考えられない。
従ってディオスクーロイがヘレンを奪取したとしても、スパルタが王女を奪還した、という事にはならなかっただろう。
ディオスクーロイというのは、カストールとポリュデウケースという双子の兄弟で、テュンダレオースの息子、ヘレンの兄に当たる。
テュンダレオース王はディオスクーロイからヘレンを取り戻すと、ミュケナイのメネラオスの妻としている。
長女のクリュタイムネストラーに婿を貰ってラケダイモンを治めさせようと考えているさたのだろうが、この頃、ミュケナイにはアトレウスは死んでいたかもしれないが、カトレウスが有力な後ろ盾としてついていた。
アガメムノンをスパルタへはやれなかったのだろう。
ヘレンをメネラオスの妻にして、ラケダイモンへ迎えるしかミュケナイの後ろ盾を得る手段はなかった事になる。
独力では国を維持できなかったこの頃のスパルタとミュケナイの力関係が、よく判る。
テュンダレオースはディオスクーロイを跡取りにする気はさらさらなかったのかもしれない。
その頃には、既にディオスクーロイも双子座になっていたのかもしれないが。
トロイア戦争よりも数十年前に、歴史上、有名なカデシュの戦いが起こる。
エジプトとヒッタイトの会戦だが、この戦いと、出エジプトの前後関係だろう。
モーゼがエジプトから出た時には、ペルラムセスが建造中だったのだとすると、ラムセス二世はカデシュにペルラムセスから出撃している。
出エジプトの方が先だったと判る。
『旧約聖書』によると、モーゼら一行はカデシュバルネアまで来ると、カナンに偵察を出して、とても太刀打ち出来ないと考え、カナンを陥落させるまでに40年の月日を費やしたという。
確かに強大なヒッタイトが占拠していたのであれば、攻略も難しかったろう。
40年後というのは、まだ暗黒時代には入っていなかったと考えられるが、かなりヒッタイトの勢力は弱まっていたのだろう。
出エジプトはカデシュの戦いよりも前だったのだろうが、モーゼら一行はシナイ山に2年間滞在している。
その間にカデシュの戦いが起きていた可能性もある。
が、モーゼら一行がカデシュへ行って、カナンの様子を偵察させる。
ヒッタイトはカナン地方のカデシュとメギドを強化させていたという。
モーゼらの言うカナンがカデシュではなければ、メギドの事だったのかもしれない。
モーゼらがカデシュに現れ、ヒッタイトが不審に思い、カデシュの防備を強化し、ヒッタイトが出て来たと思ったラムセス二世がカデシュへ進軍し、カデシュの戦いが起きた、という流れだったのかもしれない。
エジプトのメルエンプタハ王の頃にはイスラエルという国が存在したという。
つまり出エジプトから40年は時が経過していた。
メルエンプタハは海の民を撃破した。
イスラエルとも戦って勝った、というが、カナンを奪還してはいない。
戦ったが、勝ったとまでは言えなかったのかもしれない。
ペリシテ人は海の民の一派だったと考えられるが、パレスチナを奪われたペリシテ人は、イスラエルの民から都市を奪還できなかった。
元々、海の民は陸上戦には弱かったのかもしれない。
そんな海の民に負けたとすれば、ヒッタイトの衰亡ぶりが窺われる。
トロイア戦争の頃にギリシア軍に参加した小アジアの国は、ロドスくらいだったが、島なら外敵は海からしかやって来ない。
この頃にはイオニア沿岸などに都市を保持するだけの陸戦能力がなかったのかもしれない。
アルゴスの王となったテメーノスが、海の民の後ろ盾になったとすれば、暗黒時代以降、ギリシアの植民都市が増えた理由にも説明がつく。
ドーリス人はアテナイのアイオリス人とは区別されるが、同じギリシア人だ。
後にギリシア人は重装歩兵で有名になるくらい、陸戦能力を持っていた。
陸戦能力に劣っていた海の民に、ドーリス人の陸戦能力が加わったとすれば、この頃から一気にギリシアの植民都市が増えたのにも納得が行く。
この頃、イスラエルの民もカナンくらいの農業で、国を維持できた、とは考えにくいが、フェニキア人と手を組んで、海上貿易にも乗り出し、巨万の富を得て、ソロモンの栄華にまで至ったらしい。
ヒッタイトは、ギリシアや、トルコの西端、トロイアやテルモードンはアウトオブ眼中だったようだ。
ひたすらメソポタミアの肥沃な穀倉地帯に目が向けられている。
ヒッタイトやミタンニが強大な軍事力を有したのは、広大な穀倉地帯を守るためだったろう。
ミタンニの頃はカナンはミタンニの支配下にあり、エジプトとの攻防拠点はメギドにあった。
が、ミタンニが滅亡してからは、ヒッタイトとエジプトのカナンを巡る攻防の拠点はカデシュに移る。
結局、カデシュの戦いは平和条約で決着している。
ヒッタイトはエジプトがカデシュから攻め込んで来ると思い、エジプトもヒッタイトがカデシュから攻め込んで来ると思い込んでの軍事行動だったのかもしれない。
その原因が、モーゼら一行のカデシュにおける動きにあったのだとすれば、実に人騒がせな一行の動きだった、とも言える。
イスラエルの建国が紀元前1021年頃で、エジプトのメルエンプタハ王がイスラエルを征服したのが前1027年頃だとすると、イスラエルは建国する5、6年前に滅んでいる。
メルエンプタハ王がイスラエルを征服したという碑文は、メルエンプタハ王が自ら作ったものでない。
メルエンプタハ王が征服した土地が、イスラエルだと認識している者が作っている。
メルエンプタハ王は、リビアと手を組んだ海の民を撃退した。
その後、イスラエルが海の民の拠点と知って、征服したのだとすると。
この地はパレスチナとも呼ばれている。
パレスチナというのは、ペリシテ人の土地という意味らしい。
メルエンプタハ王が、イスラエルを拠点とするペリシテ人を征服したのだとすると、その跡地にヘブライ人が入り込んで、王国を作ったとしても奇妙な話とはならないだろう。
そうなれば、この時期になるまで、イスラエルが王国を名乗らなかったのにも説明がつく。
ヨシュアが攻略したカナンというのはメギドだったのだろう。
その後、カナン州の他の都市も攻略しているが、ヒッタイトの残党だろう。
ここで、ヒッタイトの領土を狙うヘブライ人とペリシテ人の思惑が競合していた。
ヘブライ人にすれば、ペリシテ人を追い出さなければ、国とは名乗れない。
そこでペリシテ人の居住地を海の民の巣窟としてメルエンプタハに通報した可能性もある。
メルエンプタハ碑文は、メルエンプタハがこの地を攻略したという事よりも、この地をイスラエルと呼んだ事の方に意味がある。
この地をイスラエルと呼べたのは、ヘブライ人だったとしか考えられない。
むしろペリシテ人人が掃討されるまで、この地が予め約束の地として予言されていたとも限らなくなる。
元々、ヒッタイトにしてもエジプトにしても、カナンの地にそれ程の価値を見出していなかったのだろう。
ヒッタイトはエジプトにメソポタミアの肥沃な耕作地帯を奪取されるのを恐れていたし、エジプトはヒッタイトにナイルの賜物を奪われるのを恐れていた。
この時代のヒッタイトにもエジプトにも、それぞれを手にするだけの余裕はなかった。
が、カナンの地を奪われれば、双方にそれぞれの地を奪取されてしまう可能性があった。
カデシュの戦いの頃には、ヒッタイトがカナンの地を守っていたのだろうし、相互に協定を結ばれた以降、ヒッタイトとエジプトの国力が弱まった後に、ペリシテ人やヘブライ人が入り込んでいたのだろう。
ある意味、エーゲ文明の植民都市に、彼らが先鞭をつけていた、とも言えるだろう。