Joyous Life Navi
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シャボン玉

◆ある雨の日、道端で小さな子供たちがシャボン玉を飛ばしている姿を見て、思わずシャボン玉の歌を思い出しました。

 シャボン玉とんだ 屋根までとんだ 
 屋根までとんで こわれて消えた
 シャボン玉消えた 飛ばずに消えた
 生まれてすぐに こわれて消えた
 風 風吹くな シャボン玉とばそ 

この歌を作った野口雨情という人は、他にも「七つの子」や「赤い靴」など後生に歌い継がれた名曲を数多く作っている人だそうですね。でも歌っていてなんとなく哀愁が漂う悲しい曲が多いのです。

このシャボン玉の歌も実は野口雨情が我が子の死に直面してその悲しみを歌に綴ったものだそうですね。夫婦にとって初めての子供。シャボン玉のように可愛い子だったのに、みんなと同じように屋根までも飛べず、声も上げられないまま亡くなってしまった我が子のために作られた悲しい歌なのですね。

そんな中、雨情はある時、満開の梅の木を見てあることを悟ったのでした。それは「この梅の花も今は綺麗に咲いているけれど、いずれは散ってゆく。でも花は散ってもこの梅の木は死んだわけではない。この木が生き続けている限り、また来年も花はきっと咲くはず。

だとすれば人の命も同じではないか。私たちの命も、実はこの木のように生き続けていて、身体だけが花のように咲いては散り、咲いては散っているのではないか。それならば、生まれてまもなく死んでいった名もない我が子も、もしかしたらまたこの梅の花のように生まれ変わってきてくれるかも知れない…」と。

確かに花は散っても木そのものは生き続けていますよね。根が生きている限りまた来年も花は咲きます。それなら人間の命も、もしかしたらずっと生き続けているのかも知れません。

目に見えないいのちの根が、私たちの身体を生かし、たとえ年限が来て枯れ果てようとも、また生まれ変わらせてくれるのかも知れないと、そう思うと暗い悲しみの淵から少しは抜け出せるような気がするのです。

運動会

◆秋は運動会の季節ですね。
あちこちの学校や町内で運動会が催されています。
無邪気な子供達が一生懸命走っている姿は
誠にほほえましいものがありますね。

特に保育園の運動会ときたら子供のための運動会なのか
親のためのものなのか分からないほど、親も走らされますよね。
「お遊び、お遊び」などと言いながらも
近所の若奥さん同士が必死の形相で走っている姿は
まさに見ものです。

そう言えば、以前「おばあちゃんの手記」っていう本に
こんな一文があったのをふと思い出しました。

「わしは子供の頃から負けず嫌いでね。
駆けっこもいつも早かった。
それにひきかえ、おとなしい孫が歯がゆくてならん。
ある運動会の時、孫が駆けっこで走ってるのを応援しとった。
がんばれ!がんばれ!と大きい声で応援しているのやが
相変わらずよたよた走っとる。
「もっと早く走らんね!」と歯がゆく思いながらも
懸命に応援しよった。

その時、孫の前を走っていた子が、パタッと倒れたんじゃ。
「今だっ、チャンスだ。それっ走れっ、抜けっ!」と思ったけれど
なんと孫はその子の後にじっと突っ立ったまま。
「何をしとるの。この間に抜くんじゃ!早う走らんね」
いらいらしながら見とると腹が立ってきた。

思わず立ち上がって、大きな声を出して
「がんばれ!がんばれ!早く、早く」
やがて倒れていた子が立ち上がって走り出した。
孫もその後から嬉しそうに走りだした。
勿論ビリじゃった…。

ところがその孫が、お昼ご飯の時
にこにこ笑いながら飛んできてこう言ったんじゃよ。
「おばあちゃん、有難う。おばあちゃんが大きい声で
頑張れ、頑張れ、早く走って、と励ましてくれたから
あの子も走れたんだよ。
とても喜んでたよ。おばあちゃん、本当に有難う」と。

その瞬間、わしの目は涙で一杯になってしもうた。
ああわしはなんちゅうことを考えとったんや。
穴があったら入りたいというのはこのことじゃ…と
本当に恥ずかしい思いがした。
そしてこんなふうに優しい心根のいい孫に育ってくれた事が
心から嬉しかった。 
             「おばあちゃんの手記」より

スゴイ迫力のあるおばあちゃんですよね。
お嫁さんも大変でしょうね。
でも子供や孫が可愛いのはみんな一緒ですもんね。
駆けっこが少々遅くても
思いやりのある優しい心を持った子供さんに育てられたお母さんは
ホントに偉いなあと思いました。

水の心


水はつかめません
水はすくうものです

心もつかめません
心は汲みとるものです

孫の心を汲みとってあげよう
嫁の心を汲みとってあげよう
妻の心を汲みとってあげよう

じっとあたたかく見守りながら
どんなときでも人の心を優しく汲み取れる
そんな自分でありたいものです


暑い日が続いてました8月も終わりましたね。
さすがのツクツクホウシもこの暑さで
グッタリって感じです。
ツクツクホーシって言うよりも
ツクヅクホーシン状態って感じですよね。

暑い時はやっぱり水ですね。
水の心には学ぶことが多いです。
水はいつも低い所に流れ 四角い器には四角く
丸い器には丸い姿になり、洗濯やお掃除の時には
自分は汚れても他を光らせてくれます。

万物を生かす水。
その水を優しくすくい取るかのように
私達も人の心を優しく汲みとれる
潤いのある心でいたいものですね。

思いやりの心

◆『小さい時に父を亡くし母も事情があったため
私は祖母の家に預けられました。
そんな状況の中、中学の修学旅行に行かせてほしいと
祖母に話すことが出来ませんでした。

「乗り物に酔うから修学旅行には行かない…」と言う私に
担任の先生が見かねて
「友達と行くのはこれが最後だから是非行かせてやって下さい」
と家まで頼みに来て下さいました。

そして友達と楽しい修学旅行に行かせてもらう事になったのですが
さすがにお小遣いまではみんなと同じ金額は持って行けず
友達が色々楽しそうにお土産を買っているのを
遠くから見ているだけでした。

その時、担任の先生がそばに来て
私の手にそっとお小遣いを握らせてくれたのです。

「おみやげに何か買っておいで」そう言って
私の手を握ってくれた先生の手の温かったこと。
私はそのお金を持って友達の輪の中に入って行きました。

随分昔のことですが、今でもその時の先生の
温い大きな手と優しさを思い出しては
人への思いやりの大切さをしみじみと感じています。』
 
人の優しさや思いやりが人の心を温める…
そんなことを感じさせられる一文です。

「思いやり」とは思いを分け合うという意味でしょうか。
人は誰でも自分の思いを分かってほしいものです。
おやさまは病気で苦しむ人に対して常に我が子同様
撫でさするように温かい親心で接して下さいました。

自分の気持ちを汲み取ってもらえた人々の喜びは
如何ばかりだったでしょうか。
流れる水をすくい取るように、人の思いを優しく汲み取れる
思いやりのある心を持ちたいものです。

借りもの

  「生きていくということは」
生きているということは  誰かに借りをつくること
生きていくということは その借りを返していくこと
誰かに借りたら 誰かに返そう 
誰かにそうして貰ったように 誰かにそうしてあげよう
              (永 六輔著『大往生』より)

生きるっていうことは、常にどこかで
借りを作っていることなんでしょうね。
生まれてから今日までどれだけの人に
お世話になってきたか計り知れませんから。

オギャーと生まれてきた時も何も持たず真っ裸で
一人では何も出来ない赤ちゃんのときから、
たくさんの人達のお陰で今日があるのですね。

今、改めて今日までの日々を振り返るとき
迷惑かけたり、心配かけたりしながらも
多くの人に力を貸して頂いて
今日の自分があるのですね。

かけがえのない家族や友達、そしてまわりの環境も
やはり全てが借りものなのですね。
そしてその借りものの恩を返してゆくことこそが
「生きてゆく」ということなのかも知れません。

そう考えるといろんなことが当たり前にならないように、
いつも新鮮な気持ちで感謝の心を忘れずに、
これからの人生を大切に生きてゆきたいものだと
今しみじみと感じています。

『生きていくということは 誰かと手をつなぐこと
 つないだ手のぬくもりを 忘れないでいること
 めぐり逢い 愛しあい やがて別れの日
 その時に悔やまないように 今日を明日を生きよう
 人は一人では生きてゆけない
 誰も一人では 歩いてゆけない』 (永 六輔)