今回は、クリストファー・ノーラン監督『インセプション』について
特に「ノーラン監督の素が出ちゃってる」のではないか、という点について妄想力豊かに書いていきたいと思います。
『インセプション』、夢とか現実とか虚構とか妄想とか、
あるいはアイデアとか創造とか神の定義とか、そういう「高尚」な方に文脈を辿っていくと沼にはまるといいますか、それこそ「Limbo」に落ちてしまいますので、どこまでもあっさりいきたいと思います。
監督の素が出ちゃってる件:その①は
本作のミッションである「夢によるアイデアの植えつけ」は、そのままズバリ、映画製作者としてノーラン監督がやっている行為そのものだということです。
夢世界の創造は、設計師や偽造師、調合師などというメンバー招集、チームビルディングから始まる。
監督を筆頭に、脚本家やカメラマン、編集者、作曲者などのメンバー招集が必須であり、その顔ぶれいかんが作品を左右する映画作りと全く同じ。
そして、夢世界の創造で語られる言葉
「構造のトリックで夢の境界をごまかす」とか「(記憶の再現は)細部はいいが全体はダメだ」とか「"いい線"それじゃ物足りない」とか「緻密さより、自然に受け入れることが大事だ」とか…
シナリオ作りや、映画の製作過程で飛び交っていそうな言葉が満載です。
出来上がった夢世界(緻密な多層構造)も、ノーラン映画そのものという感じ。
主人公のコブとは、ノーラン監督本人が多分に投影された人物であり、
『インセプション』という映画自体が、「途方もない考えに取り憑かれた男」ノーラン監督の、映画『インセプション』製作のメタファーになっている。そういう鏡合わせの関係にあると思うんですね。
もう一つ挙げると、夫婦で夢世界を創り上げるという、コブとモルの関係。
これはもう、まんまなんですよね。
『インセプション』の製作者としてクレジットされているエマ・トーマスとは、ノーラン監督の奥さんですから。
(まあ実際には、映画のようなこじれた関係ではないと思いますが、、)
コブとモルが何年もかけて夢世界を創り上げたように、
ノーラン監督も夫婦で映画を作っている。
そして、ポロリと発せられるセリフ。
「神になった気がしたよ」
ああ、出ちゃった(笑)
これ以降の作品は、どう見たって映画という時空間の神(創造主)として、ノーラン監督は君臨していますからね。
この時点でもう片鱗(というか素)が出ちゃってると。そういう観方をしてもいいんじゃないかと思うんです。
(そう考えると、映画のタイトルがインセプション(=開始点・発端)であることが、少し感慨深く見えます)
ちなみに、この映画にはノーラン監督の息子さんも出てきます。
ジェームズ・コブ。冒頭や最後の映像等々で出てくる、コブの息子。
あの役者はマグナス・ノーラン君。ノーラン監督の正真正銘の息子さんなんですね。
なのでもう、『インセプション』は修辞的にも実質的にも、ノーラン監督のもろもろが多分に投影された映画と言っていいのです。
そして、コブがノーラン監督の投影だと考えると、
あの映画のラスト、トーテムが回って、ここは現実なのか夢なのか?という問いに対して、「夢だ」という回答(というか妄想)を導くことができます。
恐らく、あれは「がけの上のおうち」を作ったというジェームズ君の夢なのではないかと。
なぜなら親にとって、子供とは夢であり、物語の発端であり、支配者であり、その意味で神のような存在と言えると思うので。
子供の夢に翻弄されるパパ・ノーランの素が出ちゃったんです。きっと。
(根拠薄弱)