たかや文庫


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  時間を追え!

 


 「九戸の乱」にまつわる話がひと段落しました。資料の蓄積もないまま、1日5-6枚の歴史原稿を毎日書き続ける、これは結構骨が折れる作業でした。何しろ完成まで5時間から6時間はかかるのですから。

 でも、時間に追われるのではなく、時間を追え、いや、リングの上で壮絶な殴り合いをしているボクサー、そんな心境で立ち向かって行った11日間でした。記事を読まれた皆さん、そんな僕の戦いの痕跡を、どこかに感じていただけましたでしょうか。

 もうお分かりだと思いますが、僕はあまり言い訳をしない人間です。書いたものがすべてで、あとは読む人にお任せるする。不親切で、融通が利かない、頑固な男と思うかもしれませんが、それは僕の住むこの世界では当たり前のことです。言い訳していては、小説が書けないのです。いや、言い訳を、言い訳と見抜かれないように書く、これで結構みんな苦心しているんです。見抜かれたら、それは自分の力量不足で、恥じ入るしかありません。

 というわけで、今日からまた気分一新、出直しです。 by syuuno・takayashiki


 たかや文庫編集長

今回の小さな企画が 何故、「九戸の乱」だったのか? お答えします。この春に予定されている高屋敷秀乃「文化講演会」の、それがテーマだからです。高屋敷秀乃の戦国物語、その主人公は九戸政實や北信愛、津軽為信らの武将ではなく、なんと阿久利を中心とした女たちの戦国になるかも?知れないのでしたがー。

  たかや文庫から刊行されている本の紹介です。



岩城大介著「南部氏・津軽氏 系図の<?>と<!真実>」

犬猿の仲といわれる南部氏と津軽氏。その系図についてはこれまでそれといった研究もなされてこなかった。しかし今、斬新なアプローチでその系図に鋭くメスが入った。




         たかや文庫-岩城大介

             ISBN4-9906966-5-8

             C0023 \1800E




 南部氏と津軽氏、実は同族なのだ。・・・・・「?(疑問)」だらけの中から見つけた「!(真実)」がここにある。系図の興味ある方は必見の書です。

 「系図と言いながらも、そこに九戸の乱を彷彿とさせる戦国のロマンが漂っている」と高屋敷秀乃さんが思わず唸った岩城大介の会心作。

全国各地のマニアから高い評価を得て、好評発売中です。 B5判 172頁 定価1800円(税別)



 たかや文庫編集長

 紹介した本は、大介さんが系図研究者としての確かな地位を確立した話題の書。高屋敷秀乃さんも弟分の活躍に刺激され、新たな構想を練っているようです。

 ちなみに大介さんの職業は歯科医師。父親である紀元先生の開業する医院の副院長で、中学生の頃から系図の研究に没頭、これまでも多くの論文を発表して、系図学会において若手のリーダーとして期待されています。















    秘密の謎を解け


 24代晴政公がお隠れになった後の、南部の泥沼のような内紛は、九戸政實、北信愛、そして津軽為信の3人の武将の野心がもたらしたものであることは、疑いの余地がありません。事は、秀吉の天下統一とあいまって、予想外の事態へと展開し、意外な結末で幕を閉じたのですが。11話にわたって九戸の乱を軸にした南部の内紛を、登場人物を変えながら、ちょっと違う角度からお話してまいりましたが、いよいよ最終回となりました。今回の登場は、久慈城18代当主・久慈備前守直治公。

 栗駒町の「みちのく風土館」に展示されている資料には、刎首された9人の武将の中に、「久慈中務直治(久慈城主、38歳)」との記述があります。これを見て、おや? と首を傾げる方は相当な歴史通です。さらに、その右隣には久慈備前守正則の名前が、直治より上位に置かれて書かれてあるのも注目すべき点です。確かにこのとき、九戸政實は56歳、政實5兄弟の末弟・弥五郎(中野修理亮)は39歳。真ん中3番目の正則は、およそ47~8歳ぐらいの年齢だと推定されます。この正則は久慈家の養嗣子であります。従って10歳も年の差がある直治より上位に位置するのは、ある意味妥当な配列だと思われますが、高屋敷秀乃が歴史の綻びの縫い目を嗅覚で感じた一瞬でした。





          たかや文庫-久慈城跡  

         久慈城は、東西200m、南北100m、

         比高約30mの独立した丘陵にあった 

          (写真は久慈市史より)


 

 そもそも、地元の市史では正則は直治の養子だということになっています。つまり、正則が10歳も年下の直治の養子になるなど、現実としてありえないことで,そこに大きな矛盾がありました。     

 現在、大川目町で伝承されている久慈備前太鼓の「縁起」でも、正則は、38歳で亡くなられた郷土の英雄、と称えられています。この説はいったいどこを彷徨って出てきたものでしょう。

 九戸の乱(1591)を区切りにして、それぞれの南部内紛の登場人物の年齢を調べてみると、九戸政實56、南部信直46、津軽為信41、中野修理亮39。この方程式に仮説を立ててみます。その1、正則47、直治38、これで歴史的(他の史実)には矛盾なく方程式が成立します。仮説その2、正則38、直治58(直治にお子がなく正則が養子になったわけですから)。3弟の正則が5弟の弥五郎より若く、政實とは18も年の離れた3男坊ということになり、いかにも突出した違和感を与えます。



          たかや文庫-九戸城内図  
         

               九戸j城内の図。

         本丸、二の丸、三の丸の他に、若狭館

         (武器庫)、石沢館(食料庫)があった。





 どの史実もこの点に触れている事実はありません。片田舎の久慈の系図など、取るに足らないものかもしれませんが、九戸の同盟国として一緒に滅んだ久慈氏にとって、これは解き明かさなければならない大きな謎です。高橋克彦氏の「天を衝く」で、直治の名は下巻最後に名前のみ登場します。もちろん正則は政實を支える重要な脇役ですから、頻繁に登場し、「九戸のお殿様」で九戸城にも参戦して活躍しています。

 さて、これには高屋敷秀乃も困り果てました。どうしたものでしょうか? しかし、ありました。やっと手に入れた一冊の本、秋田の直木賞作家・渡辺喜恵子さんが書いた「九戸城落城」の「上巳(じょうし)の節句」の中ににそれが明確に記されていました。

「17代治義の妻は云々・・・・嫡男・信義の妻も光政の孫娘であり、お子がなく、九戸信仲の3男、つまり政實の弟を世継として養子にされましたので、云々」

 あきらかに正則は直治ではなく、信義の養子であると言っているのです。きっと、久慈一族の系図の小さな矛盾に渡辺さんは気がついたのでしょう。やはり歴史は、誰もが納得できる辻褄の合ったものでなければなりません。 

 正則が信義の養子であれば、みちのく風土館の記述にある中務直治とはいったい何者なのか? いや、彼こそが、久慈城18代当主、久慈備前守直治なのでした。正則を養子として向かえたその直後、信義と正室との間に生まれた正当な世継ぎであったのです。従って正則は久慈において城主を務めることはなかった。久慈中務正則として直治の後見人に徹し、戦場にも直治の名代として参戦していた、と考えるのが妥当な解釈だと思われます。
 宮野のお城で正則が「久慈のお殿様」と呼ばれていたのは、殿様になるために久慈へ養子に行ったが、結局殿様にはなれなかった不運な運命にに同情して、政實の家臣や九戸の民が親しみを込めて呼んだからに他なりません。現に、直治の名代とはいえ、久慈の殿にふさわしい正則の活躍ぶりには、目を見張るものがありました。正則を18代城主に祭り上げた記述は数々ありますが、いつの時代にも知らず知らずのうちに歴史の改竄は継承されているものなのです。






 たかや文庫編集長

 それにしても、「九戸の乱」で、その名がどこにも見当たらない久慈直治は、結局、九戸城には出向かなかったのでしょうかか? 三迫で刎首されたのが事実であれば、政實らと一緒に城を出て潔く連合軍の軍門に下ったはずなのですが、このことについての謎は一層深まるばかりです。

 正則を名代として九戸城に派遣し 直治自身は城に残ったという説は、当時の状況から、たぶん有力な推察だと思われます。久慈一族の中にも信直側に付く者が多く、政實に勝ち目のない戦いだということが誰の目にも明らかでした。負け戦には参加しない、とだんまりを決め込んだ武士が多かったのです。城に残った直治の参戦拒否(仮病説もある)の選択もまた、久慈一族の血を絶やさないための苦渋の決断だったのはうなずける話です。しかし結果はあえなく? 久慈城主の血はこの戦いで無残に絶えてしまったのです。そこにはいったい何があったのでしょうか?

 まことしやかに巷に流れている下司な噂があります。敗者一族の一掃を恐れた直治が、秀吉に詫びるために軍門に下った9名の武将の後を追った・・・つまり、のこのこ自分から首を斬られに出かけて行ったという根強い噂ですが、もちろんこれを証明する史実はありません。久慈氏の菩提寺である慈光寺が火災で全焼したため、現在、当時の資料はほとんど残っていないと言われています。領内の久慈を名乗る武士たちはみな姓を変え、姿を隠して遁走したということですから、慈光寺の火災もまた迫害から逃れるための、窮余の一策だったのかもしれません。 

 従って、真実はあくまでも闇の中ということになりますが、いつの日か久慈の歴史に魅力的な新説が誕生することを期待して、11回に渡って連載した高屋敷秀乃の「九戸の乱」に関する記事に終止符を打ちます。 

 最後に余談ですが、ネット上の話。今、日本でも一番荒れ放題になっているお城だと酷評されているのが久慈城跡です。秀吉の朱印状によって南部は領内36の城とともに破却を命じられ、九戸の乱の2年後に久慈のお城も取り壊されています。しかし、なんと! 1486年、久慈氏を名乗った初代の領主・信政以来、一度も敵の手に落ちることがなかった珍しい城のNO1として、今全国で妙な注目を集めているのが久慈城なのです。この、なう、知っていましたか?















 親と子が、あるいは兄弟同士が、敵味方に分かれて骨肉の争いを演じる・・・・戦国に生まれた宿命とはいえ、それは一族の血を絶やさないための唯一の方策であるのかもしれません。勝つか負けるかわからない大戦であれば、いずれかの陣営に付かなければならないのです。その明暗は知れない。下手をすると本当に一族が明日には滅亡してしまう、そんな危機が戦国の武将にはいつも付きまとっているのでした。守らなければならないもの、・・・・失うもの(領地と家臣)を持っている武将は尚のこと、一族の未来を案じなければならないのです。
 後の、関が原での真田一族の選択「犬伏の別れ」が典型的な」例です。西の豊臣に付いた正幸・幸村父子と・家康側に参陣した長子・信之・・・・東軍勝利で城を追われた正幸・幸村の後釜に納まったのが、なんと信之だったのです。武士とはいえ、この選択が一族がしたたかに生き延びる道なのです。
 九戸の乱における中野修理亮直康(政實の末弟・弥五郎)の場合も、一族を欺いて秀吉軍に加担したことで、恨み骨髄の評価がいまだに多いのですが、よくよく考えてみたいのです。彼は兄・政實を尊敬していました。尊敬するあまりに、その決断力のなさ、人の良さが気に障って仕方がなかったのです。兄上ほどの器量と力があればすぐにでも南部の宗家になれるものを・・・・24代・晴政公の城内に人質として出されていた弥五郎(直康)は・藩主の側室(嫡子の母)小鶴の方を手玉にとって欺き、城を抜け出します。
 九戸の暴れん坊と異名を取った弥五郎は、南部の隣領・名門の斯波に仕えてそのまま婿になり、高田を賜って高田吉兵衛となる・・・・・かと思えば、南部と呼応して、反りの合わなくなった舅の斯波を滅ぼして、3500石の今崎城主になり、中野修理亮直康を名乗るほどになった、したたかな武将でした。
 津軽為信に負けず劣らずの悪党ぶりですが、こうした直康の出世の裏には、北信愛(きたのぶちか)の策略がありました。さすが政實の弟・・・・いや、兄より度胸が良いこの男は、将来は宗家を継ぐほどの大物になる、と南部の重臣・北信愛は見抜いていたのでした。信愛の人生もこの先短いのです。もし自分が死んだら、26代は直康に翻弄されてしまうかもしれません。そんな危険な男を表面から敵に回すより、南部に帰属させて、難敵斯波を攻略したほうが賢い。政實の弟と知りつつ、信愛が直康の長子に、2男秀愛と5の姫の1粒種の姫を嫁がせたのも、南部の将来を案じたための知略なのでした。
 直康にしても、北信愛は南部一の重臣で、そう簡単に歯向かえる相手ではありません。連合軍の伊勢道超えの道案内も、北の爺ィは直康よりもっと宮野の地形に詳しいのです。直康がやらなければ北の爺ィがやる。つまり・・・・信愛はそのとき直康の本音と覚悟を試したのでした。本当に実の兄・政實を裏切る気があるのか?・・・・腹の内を見透かされてたまるものか、と直康は心の中で反発します。どのみち九戸の城は陥ちるだろう。秀吉の連合軍の5万の前に、九戸の敗北は誰の目にも明らかでした。2,3日落城が延びたところでどうなるものでもありません。
 「九戸の乱」で、九戸の一族は滅亡したかに伝えられています。しかし、たった一人だけ敵に寝返って生き延びていた武将、それが中野修理亮直康でした。・・・南部を手中にできない兄・政實の弱気を怒り、その人の良さを嘲って九戸を飛び出したこの政實の末弟は、北信愛の後ろ盾で、今崎3500石の城主になっています。生きていれば南部の宗家を継いだかもしれない男・直康は、燃える故郷の九戸城を見ながら、そのとき何を考えていたのでしょうか。
 ・・・どうせこの戦いで九戸は負けてなくなる。俺は生きて、いつか必ず九戸を蘇らせてみせる、煮えたるぎ憎しみの怒りを抑えながら、そう決意していたとしても不思議ではありません。直康はまだ北の爺ィの半分しか生きていないのです。あいつのくたばるのを待って、ゆっくりゆっくり南部を料理してからでも再興は遅くない。もし、俺の代で適わなくても、兄・政實と分かち合った血が俺のなかにも流れているし、九戸の血はわが子にも流れている・・・。





 たかや文庫編集長

 九戸政實の末弟、中野修理亮直康(幼名・弥五郎)は、文禄4年(1595)、今崎城を訪ねてきた九戸隠岐の刃にかかって果て(42歳)、居合わせた2男・正康(15歳)が、その場で隠岐を討ち取ったと記録されています。九戸の乱の3年後のことでした。・・・・九戸隠岐という男は、直康の従弟で、宮野の九戸城では兄弟同様に暮らしたことのある間柄でした。
    九戸一族の滅亡

 宮野のお城に立て籠った九戸の一族郎党は、女・子ども含めて5千人。これを取り巻く秀吉の軍勢は5万、後方の伊達領の三迫には1万5千の秀次・家康軍が本陣が控えています。討手大将・蒲生氏郷率いる軍勢の顔ぶれは浅野長政らの秀吉直属の家臣や忠誠を誓う大名ばかりでなく、陸奥の主なる武将たちも勢ぞろいしています。南部信直、津軽為信・・・そして北信愛の隣には、戦場の山道の案内役を買って出た中野修理亮直康(弥五郎実連・政實の末弟)の顔もありました。負けるはずのない戦に、昨日の敵も友もこぞって参戦し、総がかりで九戸城を陥しにかかったのです。

 籠城策しか手立てがない九戸党。城内の東北にある若狭館には武器・弾薬、石沢館には食料が運び込まれています。他にも城内に通じる「へっちょ穴」という抜け道があって、万が一の場合には村人がここから食料を運び込む手はずになっていました。城内の一か月分の食料は村の一年分の収穫に当たりますが、それぐらいなら村人が手分けして他の村からかき集めればなんとかなります。霜が降り、雪が降るまでの長期戦を覚悟の篭城でした。

 食料がなければ「戦」ができないのは相手も同じ。連合軍の5万の兵士の食料はどこから調達するのか。即ち、農家を襲って略奪するしかないのですが、あと一ヶ月もして霜が降り、雪が降れば、寒さに慣れれない上方勢はもう尻尾を巻いて撤退するしかありません。それがこの戦いで九戸党が勝って生き残る唯一の道でした。




          たかや文庫-長興寺

               九戸氏の菩提寺 長興寺




 九戸城は「三日で陥ちる」と踏んでいた連合軍ですが、いざ戦いが始まると、地の利を得た歴戦の雄・九戸党はなかなかに手強い相手でした。鉄砲で迎え撃ち、騎馬隊を繰り出し、夜襲をかける自由奔放な戦略。連合軍の被害は毎日、数百人の兵を失うという敗戦の連続で、次第にあせりの色が浮かんできます。七日が経って、九戸方も多くの怪我人を出して疲労していましたが、まだ城は無傷のまま残っていました。

 連合軍は、いくら軍議を重ねても強固な要塞を攻め落とす妙案がありません。このままてこずっていれば太閤秀吉が物笑いの種になり、豊臣の威厳も地に墜ちる。連合軍のあせりはますます増幅し、会議は長引き、結局謀略しかないところで結論が落ち着いたのです。

 偽りの和議を申し込む・・・その使者は中野修理亮がよかろうということでしたが、いや、修理ではたちまち切り殺されてしまうに違いない。なにしろ修理の兄は政實、その人なのです。他に適任者は九戸家の菩提寺・長興寺の住職・薩天和尚しかありません。薩天和尚は、政實が最も尊敬する師の坊で、叔父でもありました。たとえ和議が不調に終わっても、惨殺などするまい。

 だが、表向きは和議ですが、本当の中身は政實が自らの開城案として、終戦に持ち込もうというのです。即ち、首謀者の首を差し出すから、城内の者たちの命を助けてくれ、と嘆願すれば秀吉に面通しして、場合によっては命が助かり、領地だって安堵されるかもしれない、という甘い嘘の罠でした。




           たかや文庫-降伏を促す書状

                九戸左近将監政実に下す。

           連合軍の諸将が連名で出した降伏を促す書状

           (書物から印刷)浅野長政を筆頭に井伊直政、

           堀尾吉晴、蒲生氏郷の名が並んでいる。

 
 策略とも知らず、薩天和尚の説得に応じて城から現れたのは九戸政實のほか、櫛引清長と弟の清政、七戸家国、久慈正則と弟の康実(4男)、大里修理亮、大湯四郎右衛門、姉帯兼政の8人の主な武将、と史実にはあります。しかし、この頃を書き残している書物には多くの曖昧さと、矛盾があります。従って、どれが真実に近いものか、後世になって曖昧な記憶の引き出しから取り出しててきたもの、あるいはそれなりに敗者の無念を慰めるため意図的に改竄されたものも多くあるに違いありません。

 ただ、いろいろ諸説があるにしても、この記事の筆者・高屋敷秀乃の地元に関する矛盾については、それなりに問題を整理して提示しなければなりません。いわゆる、久慈城の第18代当主・久慈備前守直治についてでありますが、「九戸の乱」を伝える多くの書物の中に、なぜかこの人物の名前が出てこないのです。不思議としか言いようがありませんが、これについては、次の次に予定されている「九戸の乱」の最終記事でお伝えします。

 ちなみに政實に和議を勧めた薩天和尚は事件後、信直に面会を求めますが断られ、城の大手門に向かって贓物を投げつけ、割腹自殺して果てたのでした。(72歳)







 たかや文庫編集長

 「九戸の乱」の結末は、みなさんご存知のとおりです。政實ら首謀者は9人は三迫で斬首。政實の正室の「なぎ」は、二子千代丸と囚われの身になって自害。千代丸は斬首。お城には火が放たれ、籠城した一族郎党5000人は、女・子どものはてまで容赦なく、みな殺しの全滅。ここに九戸一族は滅亡しました。この戦は、日本の歴史上で類を見ない残虐な戦いでした。










 

    大浦為信の謀反



 大浦右京為信が南部に謀反!だが、南部26代の座を巡る宗家の世継ぎ問題以来、九戸城に篭って衆議の場にも顔を出さない政実は、信直から為信追討の命を受けても、だんまりを決め込んで動こうとしないのです。。

 指をくわえてみすみす見逃すしかないのか。謀反を起こした為信は、三戸直参に栄進したとはいえ、たかだか700石の新参者・・・・策士・北信愛も歯軋りして苛立ちをす隠せません。もともと久慈生まれの為信が、その久慈とは固い血縁の同盟を結ぶ政實と結託しての謀反、いやもしかすると、この謀反は政實が仕組んだ罠かもしれないのですから。




         たかや文庫-九戸城の本丸跡

             九戸城の本丸跡 (二戸市)




 天正18年(1590年)3月、秋田実季の援軍を得た為信は、雪解けを待って、ついに決起しました。郡内の兵400人、秋田の援軍250人、・・・総勢650の軍勢で浪岡城を包囲。26日の夜襲から始まったこの戦いは城内からの寝返りも多く、28日の未明にはあっさり決着が着きました。郡代・南長勝は7騎に守られ、大惨敗。命からがら三戸へ逃げ帰ってしまいました。

 津軽地方の最大の要塞、浪岡城を落とした為信は、城に篭って郡内から2000の兵をかき集め、三戸との応戦に備えました。信直の命を受けて逆襲に出向いた大光寺正親の軍勢500でしたが、逆に郡内に潜む伏兵の襲撃を受けて敗走します。

 九戸が為信討伐に動かぬとなれば、久慈や七戸はもちろん、四戸も櫛引も動くはすがありません。そうなると信直も迂闊に城を空けるわけにはいかない。この機に乗じて、実力者・九戸政實の蜂起が懸念されたからです。

 北の大地は血生臭い戦さにまみれて混乱していましたが、中央では天下を治めた秀吉の小田原・北条攻めが始まっていました。「豊臣の旗の下に結集し、小田原攻めに参陣せよ!」と全国の大名に檄(げき)を飛ばしました。




          たかや文庫-政実とお祭り

           郷土の英雄・九戸政實をテーマにした

           お祭りの山車 (九戸村



 


 奥羽でこの檄(げき)に呼応して、小田原一番乗りを果たしたのが角館城主・戸沢氏でした。300騎を昼夜走らせ、秀吉のもとに駆けつけたときには、息絶え絶えの武将一人しか残っていなかった、と伝えられています。この忠誠に秀吉は感激し、即座に4万4000石の領地安堵の「朱印状」を与えたのです。

 各地の大小の大名がそれぞれ小田原詣に馳せ参じる中、政實と為信の動向に苦心して身動きが取れない南部信直。三度目の催促の書状が前田利家から届き、これ以上遅れを取ってはならない、と浪岡城の奪回はひとます断念せざるを得なかったのです。・・・・・こうした時の流れの「運」も為信に味方していましたが、実は為信、いや、為信の母・阿久利はもっとしたたかな強運の持ち主でした。



 たかや文庫編集長

 その時、伊達政宗と気脈を通じていた政實は、小田原詣に出向かなかった。何故か?・・・・いずれ伊達の時代がくる、と信じて、平然と天下の情勢を眺めていたのです。万が一、秀吉が本当の天下人になったとしても、その時は伊達が九戸を救ってくれるだろう。

 一方、津軽を制した為信もまたじっとして動かなかったのです。どうしてか?・・・そのとき阿久利は秘策を胸に京の公家・近衛家を訪ねていました。

 

  


















 

  津軽の史実は改竄されたのか



   南部宗家の信直は、為信にとってさして恐るに足らぬ人物です。元はといえば自分と同じ妾腹の子にすぎないのです。叔父の晴政公の1の姫を娶って宗家の後継と目されていましたが、1の姫があえなく病気で他界した後は、晴政公と反りが合わず、田子の城に篭り失意の暮らしをしていたのです。たまたま運よく北信愛の後ろ盾があって、26代を名乗っているにすぎない男でした。

 他方、九戸政實は、豊富な戦歴と武勇の数々、また一回り以上離れた年の差もあって、なかなか頭が上がらない人物でした。正面から反旗を翻しても、今の為信では足元にも及ばない男なのです。九戸一族のおかげで産まれ故郷の久慈では酷い仕打ちを受けて、腹の底は煮えくり返っていても、今は大人しくしているしかありません。むしろ、恭順を示して政實の顔を立て、南部からの独立の機を狙うのが得策だ、と思っていたのでした。そして、そのチャンスが遂にやってきたのです。



         たかや文庫-馬寄平

                  

         葛巻信祐との合戦で久慈直治軍300が待機

         した平庭の麓・馬寄平。(旧山形村・合戦場付

         近の跡) 九戸の乱を覚悟した政實の決意が

         裏付けられる戦いだった。




 お互いを牽制してにらみ合いを続ける信直と政實を尻目に、今がチャンスとばかり為信は津軽の拠点・浪岡城を包囲して蜂起しました。伏兵の謀反に驚く信直・・・・だが、為信討伐の命を受けても政實は動こうとはしません。蜂起すれば津軽の独立を後押しするという、為信との同床異夢の密約がありました。政實にとってもこれを機に信直を弱体化させて、一気にたたき潰すチャンスでもあったのです。

 北へ向かって為信を追えば背後から政實が城を襲い、たちまちのうちに三戸の居城は政實の手に落ちてしまうだろう。やむなく大光寺正親に500の兵を預け、浪岡城の奪還を試みたがあえなく惨敗し、信直は次に打つ手に窮してしまいます。しかも、天下は秀吉の小田原攻め真っ最中、急ぎ駆けつけて拝謁せよ、との書状が前田利家から矢のように届く。このまま伏兵の謀反を見逃すしかないのか。





          たかや文庫-首塚碑  

          家臣・佐藤外記が首を持ち帰ったとされる

          政実の首塚。地元の無念が偲ばれる。




 政實を恐れて身動きできない信直を嘲け笑うかのように、為信は北へ向かって急速に勢力を伸ばしていきます。小田原(秀吉)のことは母・阿久利の知略にに任せるしかない。今は目の前に広がる自分の領地を平定することが母との約束だった。ざまあみろ! と高笑いした為信は、実際130の村を南部からもぎ取ってやったのです。もっとも、奪った土地はもともと南部に掠奪された津軽の領地でしたから、領民は為信を故郷を奪い返した「英傑」として迎え入れたのでした。

 結局、南部が為信に奪われた領地が4万5000石、残った領地が10万石となれば、これはもはや伏兵の謀反では片付けられない南部の大惨敗です。これで津軽為信は奥羽の主・南部と肩を並べる大名に成り上がったのでした。しかも、津軽の知略はこれだけにとどまりません。



          たかや文庫-九戸・平和像  

          悲運の武将・政實の祈魂と、戦争による

          犠牲者の慰霊のために建立された平和

          の像。(八元戸市長・中里信男氏の寄進)



 津軽の史実では、津軽は藤原氏につながる家柄、そもそも源氏の亜流の南部とは格式が違う・・・・南部より由緒ある家柄だ、という説が主流となっています。これは改竄された史実である可能性が高いことは前稿で指摘しましたが、この説の裏付けになっているのが、阿久利の近衛家の訪問の顛末であったことは言うまでもありません。




 たかや文庫編集長

 歴史の改竄といえば大げさですが、歴史は常に勝者の論理が作り出すものです。もちろん、ご承知の方は多いと思われますが、津軽家14代義孝氏の4女・華子様が常陸宮殿下(昭和天皇の弟)に嫁いだのも、津軽は摂家・藤原につながる由緒ある家柄(後には徳川・細川・毛利など多くの諸大名とも血縁のつながりを持った)ということが、まったく無関係だったとは言い切れないのです。こうした津軽の格式説の源が為信の母・「阿久利」であることは疑いなく、この類い稀なる女性は良し悪しは別としても、 もっと広く世に脚光を浴びてもよい戦国の女傑の一人だ、と編集長は思っています。たぶん、名脇役としての存在感が、戦国の歴史にまたひとつ大きな花(華)を咲かせるのではないでしょうか。












 歴史は壮大な物語です。この物語は、史実に沿ったエピソードがなければ、魅力が半減してしまいます。逆に、面白いエピソードがあれば、歴史が100倍楽しめます。豊臣秀吉の天下統一の最後の戦い「九戸の乱」にも数多くのエピソードがあります。
 

 天正17年(1589)3月3日。津軽郡代・石川政信の浪岡城でおきた干茸事件。これは阿久利(あぐり)と為信が企てた政信暗殺事件だと言われています。どれほど悪党なのか為信は・・・主君を殺して覇権を手に入れたい気持ちはわかるが、その代償に妻ばかりか、妹の久(ひさ)までも利用してともども殺してしまう非道ぶりは、もはや人間の仮面を被った悪魔の仕業というしかありません。この暗殺の筋書きは阿久利が主導して企てたものだとされています。

 だが、そこまで為信母子を悪党に仕立ててもいいものでしょうか。歴史のエピソードとしては、どうしても必要不可欠な説(重要事件)だとは思えないものですし、単に病死でも事足りる出来事でした。為信が目的のために手段を選ばない冷酷な野心家であったことの証明だとしても、腑に落ちない質の悪い邪説です。

 しかし、邪説とは言いながらも、この説の作者は見事な筆の運びです。

「兄上は、嫂さまも殺せるおひとなんですねえ」
 死の間際に、為信に言い残した妹・久の悲しい言葉が、さも痛々しく、心を揺さぶります。


       たかや文庫-近衛家の家紋

       書物では、近衛家の家紋は「銀杏」です。

       編集長の不勉強かも知れませんが、ここでは

       近衛家の家紋を「牡丹」とさせていただきます。

 津軽為信の母・阿久利には、他にも、まさか?と耳を疑うエピソードがあります。まさか?通常では思いもよらないこと・・・・何故、阿久利は京の近衛家を訪ねて行ったのでしょうか。

 1590年、それは「九戸の乱」の前の年のことです。「家臣のなかに京で生まれ、妹が近衛家に仕えているという深浦勘助がいる」・・・・たったそれだけのことで、阿久利の直感が鋭く働いたのです。勘助とその妹の手引きで近衛家に近づき、その上で、南部より一足早く小田原の秀吉に拝謁しようという、無謀ともいえる魂胆でした。

 思い立ったが吉日で、阿久利はすぐさま西根大浦から出羽路を辿って、京へ向かいました。土産に白絹と砂金を山と積んで近衛邸に着くと、顔を土にこすりつけ、3拝9拝して忠誠を誓います。

 高価な土産がモノを言って、首尾よく念願の藤原の姓と家紋をいただく許可(?)を得ると、京で求めた衣服をまとい、乗ってきた籠も銀杏の紋所に改めて、一路小田原へ。
「近衛家より参りましたる大浦右京為信の母でございます」

 秀吉の前に出た阿久利は、まるで近衛家の身内であるかのように名乗り、一世一代の大芝居を打ったのです。

 貧農の出の秀吉は、高貴なお公家様には弱いのです。阿久利は、為信は南部に攻められて参陣したくてもできない旨を話し、ぼろぼろ涙をこぼし救いを求めました。銀杏の紋所の籠、儀杖を持った立派な身のこなし、そして女の涙に情をほだされて、秀吉はついに領土安堵の朱印状を阿久利に与えてしまったのです。・・・・してやったりの阿久利。

 阿久利の女傑ぶりを示すこのエピソードは、複数の書物に書かれています。実際にあったかどうかはもちろん定かではありませんがー。



        たかや文庫-九戸の家紋  

               九戸氏の家紋


 たかや文庫編集長

 このエピソードには痛快なオチがあります。意気揚々と津軽へ帰る阿久利は、小田原参陣のためにやってきた南部信直の行列とばったり出くわすのです。銀杏の紋所の付いた籠、これみよがしに突きつけた儀杖、さらには胸にしまった秀吉の朱印状・・・思わずたじろいで、ただ見送るしかなかった信直の、それは生涯の不覚でした。

 秀吉について言えば、実力本位の人で、かなりの変わり者ですから、案外、臆面なく既成事実を積み上げた為信の手腕を認めたのかもしれません。また無類の女好きですから、女にはからきし弱いし、たとえ白髪の老婆でも、秀吉は美女が大好きなのです。つまり、秀吉の人間性もそこに垣間見ることができて、この話はエピソードの粋(すい)☆☆☆☆☆であると、編集長は思うのですが、いかがでしょうか?









 

   戦国の母と子




 戦国の母と子・・・・いかにも悲劇を連想させるタイトルですが、実はそうではありません。

 書物を見る限り、為信の母・阿久利(あぐり)の登場機会はきわめて少ないのですが、才色兼備などという言葉が霞んで見えるほど、輝きがある女性として描かれています。もっとも、謀反を起こした男の母ですから、負のイメージを払拭できないのは仕方ありませんが、この女性を見るともう一人の阿久利を思い出してしまうのは何故でしょう。

 もう一人の阿久利とは・・・・赤穂浪士でお馴染みの浅野内匠頭 の正室・阿久利です。NHkドラマ「薄桜記」で小島慶子さんが熱演した役柄で、吉良邸に打ち入りの際に、浪士たちの精神的支柱になった人物です。赤穂浪士の吉良邸討ち入りは1702年、外ヶ浜の阿久利はそれより130年も前のことで、この同じ名前の二人に共通しているのは、精神的に自立した女性であること、その逞しさと、美しさと、そして何より理知的な魅力にあふれた女性であることです。ただ、ちょっとだけ違いがあるとすれば・・・・・・。




       たかや文庫-慈光寺


             久慈氏の菩提寺・慈光寺

 

 久慈の外ヶ浜の海岸で、領地の見回りにきた藩主・治義に見初められた阿久利は男子・弥四郎を授かりました。この子が後の初代津軽藩主・為信ですが、そこに至までの道のりは波乱万丈でした。

 幼名・弥四郎は体も大きく、才知にも長け、12の頃には風に乗って走ったと言われています。久慈から宮野の九戸城まで15里(60キロ)の道のりを一日で往復してけろりとしていたというのですから、末恐ろしい子どもだと噂され、治義の正室はそんな弥四郎を忌み嫌いました。確かに小狡い、人を小ばかにした態度には可愛げのないものがありました。

 妾の子でも藩主の子、本来ならそれなりの処遇を受けるものですが、この頃の久慈家は複雑な家庭環境・・・治義の妻は光政の娘(政實の大叔母)です。嫡子・信義の正室は光政の孫娘(政實の叔母)で、代々九戸との血縁関係による同盟を結んできました、その上、義信にお子がなかったため、政實の弟、正則を嫡養子として迎え入れていたのです。

 父・治義はすでに老い、兄・信義とは親子ほども年が離れ、家督を継ぐのが九戸の嫡養子となれば、弥四郎親子も居場所がありません。

 


         たかや文庫-外ヶ浜
         

          阿久利が治義と出会った外ヶ浜海岸付近

 

 はしため(召し使い女)から身を起こした阿久利は、美しいばかりでなく、弥四郎の母だけあって度胸のいい女でした。男なら一国一城の主になるぐらい頭のよく働く女で、その利発さゆえにお殿様のお手が付いたのかもしれません。

 治義公が身罷られると、阿久利と弥四郎は大浦家を頼って久慈を出ます。阿久利が大浦平蔵と再婚したのを機に、弥四郎はその名を大浦右京為信と改めたのです。・・・これが阿久利と為信母子の国取り物語の始まりでした 。




 たかや文庫編集長

 津軽為信の久慈出自説は、多くの南部の関連書物にもあります。しかし、地元・津軽の史實では全面否定されています。為信を名乗る武将は二人いて、久慈の出自でない為信が津軽のお殿様になった、という笑うに笑えないな説です。しかし、津軽にはそこまでしなければならない大きな理由がありました。

 それは為信の国取りを、単に南部の内紛の産物として歪曲されるのではなく、「もともと南部の策略で押収されていた領土を回復した英傑」と位置付けるための、譲れない最後の一線なのでした。

 ・・・だが、それは勝者にだけ許されてまかり通る論理かもしれませんが、南部に勝る津軽の由緒ある家格を誇示するために、歴史が改竄された可能性の高い、と指摘する専門家は多いのです・・・・。

















   南部の出自は源氏なのか


 三戸宗家の初代藩主は南部光行。2代藩主は2男・実光・・・・以下略。

 23代が早世し、晴政が13才で24代藩主になる。天文8年(1539)御厩別当(おんまやべっとう)赤堀備中の手により三戸城が炎上。晴政の女好きが原因の放火だったといわれています。

 晴政には5人の姫がいて、6人目が妾(小鶴)が生んだ嫡男・晴継(幼名亀千代)です。晴政は天正10年、66歳で身罷られ、13歳の晴継が25代藩主となるのです。・・・・ところが晴政の葬儀の日、晴継は何者かの手によってあっさり暗殺されてしまいます。

 古今東西、類に漏れなく、ここから南部宗家にも跡目問題が発生し、暗闘が繰り広げられるのです。政實の弟の実親は2の姫を娶り、世継ぎの筆頭候補、一方、病死したとはいえ1の姫の婿、田子九郎信直(後に26代藩主)を押す勢力もありました。



         たかや文庫-みちのく風土館

         平成22年「みちのく風土館」に行ってきました。

 

 九戸南部の九戸政實は、南部光行の5男・行連の血を継ぐ南部の名門です。久慈氏もまた同じ南部の名門で、代々九戸とは強い血縁関係を結んできました。九戸と久慈はいわば同盟国で、譜代の存在でも、宗家における地位はその軍力と財力によって一目置かれる存在でした。

 他方、南部宗家には東西南北の姓を名乗る旗本的な重臣がいました。3の姫が嫁いだ先は東中務朝政、4の姫は南弾正盛義、そして5の姫(後の高源院)は、鳥谷ヶ崎城主・北信愛(きたのぶちか)の2男・北主馬秀愛(きたしゅめひでちか)に嫁いでいました。この両者の主導権争いが南部の混乱をさらに増長させてゆきます。



たかや文庫-法要案内
 たかや文庫-法要案内









         

                       


420年の星霜を経て、久慈氏の菩提寺・慈

光寺から編集長宛に届いた、久慈備前直治

公の追悼慰霊の法要案内状

 九戸政實には5人の男兄弟(5男2女)がいます。

 政實は長男、2男の実親は24代・晴政公の2の姫を娶り、3男正則は久慈へ嗣養子、4男康実はさだかではないが、久慈に直治誕生後は正則の補佐、いわゆる九戸政實との連絡調整役?に徹し、5男実連は幼名を弥五郎と名乗り、多くの遍歴を経て、後の今崎3000石の城主、中野修理亮直康となった。この中野直康、九戸の乱では南部方に付き、自らの一族を滅ぼすことに一役買ったが、皮肉にもその彼は、全滅した九戸一族の唯一の血縁を残すことになった武将でした・・・。



 たかや文庫編集長

 そもそも南部は、八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光の直系、南部光行を始祖としています。いわゆろ甲州源氏の血を引く武将であり、23歳のとき源頼朝の旗の下に馳せ参じ、平家との戦で甲斐幸部の里を賜った。その後、藤原泰衡と改め、頼朝に伴って陸奥へ下り、その行賞で陸奥糠部(めかべ、または、ぬかのべ)5郡を賜った。甲州を出た光行は、家臣73名を6隻の船に便乗させて、2ヵ月後、海から糠部に上陸し、以降、糠部の国主となり、6人の男子に恵まれました。

 光行は、2男に三戸宗家を継がせ、3男朝清に七戸(久慈氏の祖)、4男宗朝には四戸、5男の行連に九戸、6男実長には根城(八戸)を分かち与えました。妾腹だった長男・行朝は一戸の祖となり、これより以降南部の宗家は三戸となりました。・・・・以上は定説ですが、今からおよそ800年前のことです。