秘密の謎を解け
24代晴政公がお隠れになった後の、南部の泥沼のような内紛は、九戸政實、北信愛、そして津軽為信の3人の武将の野心がもたらしたものであることは、疑いの余地がありません。事は、秀吉の天下統一とあいまって、予想外の事態へと展開し、意外な結末で幕を閉じたのですが。11話にわたって九戸の乱を軸にした南部の内紛を、登場人物を変えながら、ちょっと違う角度からお話してまいりましたが、いよいよ最終回となりました。今回の登場は、久慈城18代当主・久慈備前守直治公。
栗駒町の「みちのく風土館」に展示されている資料には、刎首された9人の武将の中に、「久慈中務直治(久慈城主、38歳)」との記述があります。これを見て、おや? と首を傾げる方は相当な歴史通です。さらに、その右隣には久慈備前守正則の名前が、直治より上位に置かれて書かれてあるのも注目すべき点です。確かにこのとき、九戸政實は56歳、政實5兄弟の末弟・弥五郎(中野修理亮)は39歳。真ん中3番目の正則は、およそ47~8歳ぐらいの年齢だと推定されます。この正則は久慈家の養嗣子であります。従って10歳も年の差がある直治より上位に位置するのは、ある意味妥当な配列だと思われますが、高屋敷秀乃が歴史の綻びの縫い目を嗅覚で感じた一瞬でした。
久慈城は、東西200m、南北100m、
比高約30mの独立した丘陵にあった
(写真は久慈市史より)
そもそも、地元の市史では正則は直治の養子だということになっています。つまり、正則が10歳も年下の直治の養子になるなど、現実としてありえないことで,そこに大きな矛盾がありました。
現在、大川目町で伝承されている久慈備前太鼓の「縁起」でも、正則は、38歳で亡くなられた郷土の英雄、と称えられています。この説はいったいどこを彷徨って出てきたものでしょう。
九戸の乱(1591)を区切りにして、それぞれの南部内紛の登場人物の年齢を調べてみると、九戸政實56、南部信直46、津軽為信41、中野修理亮39。この方程式に仮説を立ててみます。その1、正則47、直治38、これで歴史的(他の史実)には矛盾なく方程式が成立します。仮説その2、正則38、直治58(直治にお子がなく正則が養子になったわけですから)。3弟の正則が5弟の弥五郎より若く、政實とは18も年の離れた3男坊ということになり、いかにも突出した違和感を与えます。
九戸j城内の図。
本丸、二の丸、三の丸の他に、若狭館
(武器庫)、石沢館(食料庫)があった。
どの史実もこの点に触れている事実はありません。片田舎の久慈の系図など、取るに足らないものかもしれませんが、九戸の同盟国として一緒に滅んだ久慈氏にとって、これは解き明かさなければならない大きな謎です。高橋克彦氏の「天を衝く」で、直治の名は下巻最後に名前のみ登場します。もちろん正則は政實を支える重要な脇役ですから、頻繁に登場し、「九戸のお殿様」で九戸城にも参戦して活躍しています。
さて、これには高屋敷秀乃も困り果てました。どうしたものでしょうか? しかし、ありました。やっと手に入れた一冊の本、秋田の直木賞作家・渡辺喜恵子さんが書いた「九戸城落城」の「上巳(じょうし)の節句」の中ににそれが明確に記されていました。
「17代治義の妻は云々・・・・嫡男・信義の妻も光政の孫娘であり、お子がなく、九戸信仲の3男、つまり政實の弟を世継として養子にされましたので、云々」
あきらかに正則は直治ではなく、信義の養子であると言っているのです。きっと、久慈一族の系図の小さな矛盾に渡辺さんは気がついたのでしょう。やはり歴史は、誰もが納得できる辻褄の合ったものでなければなりません。
正則が信義の養子であれば、みちのく風土館の記述にある中務直治とはいったい何者なのか? いや、彼こそが、久慈城18代当主、久慈備前守直治なのでした。正則を養子として向かえたその直後、信義と正室との間に生まれた正当な世継ぎであったのです。従って正則は久慈において城主を務めることはなかった。久慈中務正則として直治の後見人に徹し、戦場にも直治の名代として参戦していた、と考えるのが妥当な解釈だと思われます。
宮野のお城で正則が「久慈のお殿様」と呼ばれていたのは、殿様になるために久慈へ養子に行ったが、結局殿様にはなれなかった不運な運命にに同情して、政實の家臣や九戸の民が親しみを込めて呼んだからに他なりません。現に、直治の名代とはいえ、久慈の殿にふさわしい正則の活躍ぶりには、目を見張るものがありました。正則を18代城主に祭り上げた記述は数々ありますが、いつの時代にも知らず知らずのうちに歴史の改竄は継承されているものなのです。
たかや文庫編集長
それにしても、「九戸の乱」で、その名がどこにも見当たらない久慈直治は、結局、九戸城には出向かなかったのでしょうかか? 三迫で刎首されたのが事実であれば、政實らと一緒に城を出て潔く連合軍の軍門に下ったはずなのですが、このことについての謎は一層深まるばかりです。
正則を名代として九戸城に派遣し 直治自身は城に残ったという説は、当時の状況から、たぶん有力な推察だと思われます。久慈一族の中にも信直側に付く者が多く、政實に勝ち目のない戦いだということが誰の目にも明らかでした。負け戦には参加しない、とだんまりを決め込んだ武士が多かったのです。城に残った直治の参戦拒否(仮病説もある)の選択もまた、久慈一族の血を絶やさないための苦渋の決断だったのはうなずける話です。しかし結果はあえなく? 久慈城主の血はこの戦いで無残に絶えてしまったのです。そこにはいったい何があったのでしょうか?
まことしやかに巷に流れている下司な噂があります。敗者一族の一掃を恐れた直治が、秀吉に詫びるために軍門に下った9名の武将の後を追った・・・つまり、のこのこ自分から首を斬られに出かけて行ったという根強い噂ですが、もちろんこれを証明する史実はありません。久慈氏の菩提寺である慈光寺が火災で全焼したため、現在、当時の資料はほとんど残っていないと言われています。領内の久慈を名乗る武士たちはみな姓を変え、姿を隠して遁走したということですから、慈光寺の火災もまた迫害から逃れるための、窮余の一策だったのかもしれません。
従って、真実はあくまでも闇の中ということになりますが、いつの日か久慈の歴史に魅力的な新説が誕生することを期待して、11回に渡って連載した高屋敷秀乃の「九戸の乱」に関する記事に終止符を打ちます。
最後に余談ですが、ネット上の話。今、日本でも一番荒れ放題になっているお城だと酷評されているのが久慈城跡です。秀吉の朱印状によって南部は領内36の城とともに破却を命じられ、九戸の乱の2年後に久慈のお城も取り壊されています。しかし、なんと! 1486年、久慈氏を名乗った初代の領主・信政以来、一度も敵の手に落ちることがなかった珍しい城のNO1として、今全国で妙な注目を集めているのが久慈城なのです。この、なう、知っていましたか?