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 柳橋水車図屏風の制作が慶長八・九年頃であるから、本作品は、それよりも以前の制作となる(註1)。

 

ゆえに、本作品を慶長八年以前に制作した人物としては、長谷川等伯の娘婿である等学や、等伯次男の宗宅などが考えられる。

 

しかし、本作品の各馬には、表現手法や彩色の優劣に差があり、主に一人の画家によって制作されたものではないと私は思う。

 

したがって長谷川派内の各人物がもつ、画風特徴に通ずる馬を、その筆者として想定したい。

 

 

「等学の松樹の描写は、樹姿の釣合いの取り方や樹肌の細密な描写において、他の長谷川派の画法とは異なり、却って狩野派風に近いものである。」(桃山絵画研究 山根有三著作集六より抜粋)

 

 狩野派的な表現特徴をもつ馬として、六曲一双の屏風絵の全画面左から、⑦扇に描かれた馬をあげる。

 

本作品よりも以前に制作されたクリーブランド美術館が所蔵する厩図屏風では、胸の筋肉描写が小型であるのに対して、本作品ではr型で表現されている。

 

このr型の胸の筋肉描写は、狩野派的と考えられている(註2)。

 

したがって、狩野派的な表現特徴をもつ、この⑦扇の馬の筆者には、等学を想定する。

 

 

 

「等秀は、等伯を中心とする長谷川派金碧障壁画のすべてに活躍したのである。それらの等秀筆の襖絵に共通する特徴は、他の弟子作に比べ、一見地味で古様だが、画技の熟練度は格別に高く、中国院体花鳥画の写実を深く会得するところにある。かかる画風から、等秀は早くより等伯に絵を学んだ一番弟子だと考えてよかろう。年齢も弟子中もっとも年長で、久蔵よりもかなり年上と思われる。」(桃山絵画研究 山根有三著作集六より抜粋)

 この⑩扇に描かれた馬全体の描写は、首が太く、尻が大きく、足が短く描かれている。

ゆえに、中国画の馬の特徴と通ずる要素を備えもつ、この馬の筆者には、等秀を想定したい。

 

 この馬は、右隻画面中において、唯一の連銭葦毛の毛色であるため、同調する表現手法で描かれた馬を見出し易い。

その馬として④扇の馬をあげる。

 この④扇の馬は、等秀筆とした⑩扇の馬と同じく、平面的な彩色を施したのち、連銭葦毛の毛色に濃淡をつけて馬の量感を表現する。

また、筋肉の隆起には、墨線を用いて表現する。

したがって等秀筆とした⑩扇の馬と、同じ表現手法で描かれた④扇の馬の筆者にも、おなじく等秀を想定する。

 

 全画面右から3扇目に位置する⑩扇の馬の筆者に等秀を想定したから、おそらくは一貫性をもち、全画面左から3扇目に位置する③扇の白馬も、同一筆者の可能性が強い。

等秀筆とした④・⑩扇の馬は共に、連銭葦毛の毛色に濃淡をつけて馬の量感を表現する。しかし、その下に施された彩色は、濃淡があまり見られない平面的な彩色が施されている。

また、筋肉の隆起には、墨線を用いて表現する。

したがって、等秀筆とした④・⑩扇の馬と、同じ方向性の表現手法で描かれたこの③扇の白馬の筆者にも、等秀を想定する。

 本作品よりも以前に制作された宮内庁が所蔵する厩図屏風では、③扇の馬は全くの白馬であるのに対して、本作品では体部と腹部の毛色を塗り分けている。

 

この特徴や同じ表現手法で描かれた馬として、⑥扇の馬をあげる。

 

 本作品よりも以前に制作された宮内庁が所蔵する厩図屏風では、褐色の単一の毛色であるのに対し、本作品では体部と腹部の毛色を塗り分けている。

また、筋肉の隆起や各部分および馬の輪郭には、明確な墨線を用いて表現する。

したがって等秀筆とした③扇の馬と同じく、体部と腹部を塗り分けた毛色の特色や、墨線によって各部分を表現したこの⑥扇の馬の筆者には、同じく等秀を想定する。(眼の部分は補筆)

 

 

 等伯画については、次の分析を参考にする。

「老松図が水墨画で楓図が金地彩色であり、画題も違うので、描写を云々することは出来ないが、それにしても両者とも、永徳画のように対象の輪郭を明確に描いたり、各対象をはっきり描きわけたりしないで、墨触と墨調または色調によって、質感や情緒を表現する点において、相通ずるものがあるのではないだろうか。このことは同じ金碧画である永徳画の檜図屏風と智積院の楓図を比べると一層明らかである。」(桃山絵画研究 山根有三著作集六より抜粋)

 

 上記の分析と、最も通ずる表現特徴を示す馬として、①扇の馬をあげる。

この馬は、胸以外の輪郭線を隠すように彩色が施されている。また明確な胸の輪郭線は、他作品ではU型であるのに対して、本作品ではW型のため、彩色の濃淡とともに、一層量感が感じられる。

 

したがって、馬の輪郭線を明確に見せずに、彩色の濃淡を活かし、質感や量感を表現するこの馬の筆者には、等伯を想定する。

 長谷川派内の最上位に存在する等伯が、全画面の最も左端に位置する①扇の馬を制作する点から、おそらくは一貫性をもち、全画面の最も右端に位置する⑫扇の馬も、等伯の担当であったと推測したい。

 

 

 等伯画の分析と、同調する表現特色を見せる部分として、「松樹と桜樹の幹」をあげたい。

 

 本作品に描かれた松樹や桜樹の幹は、まったくと言ってよいほど輪郭線が見られず、その表現は主として、彩色の色調によって樹幹を表現する。

 

それゆえ、狩野派的な等学画の表現ではなく、等秀画の古様または中国画的な表現のでもない、等伯画の表現特徴と通ずる「松樹と桜樹の幹」の筆者には、等伯を想定する。

 

 

 この②扇に描かれた馬は、等伯筆とした①扇の馬と近い表現手法や、表現特徴が見られるものの、それよりも平面的な傾向が見受けられる。

この傾向と、同調する表現手法を見せる馬として、⑤扇の馬をあげる。

 

 さきの②扇の馬は、①扇の馬に似た威圧的な目の表現であるのに対し、この⑤扇の馬は、①②の馬から感じられる威圧感が乏しい。

 

そのため②⑤扇の馬の筆者を同一とするには若干の抵抗があるけれども、この⑤扇の馬は、「幼い馬」が描かれているのではないかと思う。

 

その理由として、他作品の厩図屏風では、厩舎の庇(ひさし)によって、馬の頭部が隠れている。

そのため、躍動する馬の高さが効果的に表現されているのに対して、本作品では頭部がそのまま描かれている。

同じく他作品の厩図と比較すると、この⑤扇の馬は、体部に対して左後足が短い。

そのため、その曲がった足首の描写は、踏ん張りが弱く、躍動感を欠いている。

 

このような描写と、威圧的ではない眼の表現を考慮して、⑤扇の馬は「幼い馬」が描れていると思う。

 

それゆえ、等伯筆とした①扇の馬と近い表現方法で描かれ、それよりも平面的な傾向を見せる②⑤扇の馬の筆者を同一と考えて、この筆者には久蔵を想定する。

 

その解釈としては、下記のように考えたい。

「すなわち、才気と感受性に富んだ久蔵青年が意気盛んな等伯の祥雲寺(智積院)障壁画制作に協力して、等伯に触発されつつ、自己の本質を遺憾なく発揮したのが桜図(⑤扇の幼い馬)となり、同じ頃、いっそう等伯画に迫ろうとしたのが、朝比奈草摺引図(②扇の馬)である、と解釈できるのである。」(桃山絵画研究 山根有三著作集六より抜粋)

 

 

 

 これまで想定した筆者を整理して左隻画面を見ると、等秀筆とした馬だけが、ニ頭並び続いて、画面の中心に位置する。

また、等伯1頭、久蔵計2頭、等秀計3頭の制作となり、等秀がより多くの馬を制作している。

 

これらの点から、本作品の制作を指揮したのは等伯であっても、制作の中心人物は、一番弟子である等秀であったと考えられる。

 

 等伯や久蔵が、色調を重視して馬を表現するのに対して、等秀は主として平面的な彩色を施し、墨線によって各部分を表す。

この表現手法の違いから、等秀は一番弟子であるにもかかわらず、等伯や久蔵のように、彩色によって馬の質感を表現する技術をもっていなかったのだと思う。

 

その彩色技術をもたない等秀は、担当である③⑥扇の馬の表現が、平面的になることを避けるために、体部と腹部の毛色を塗り分けて、馬の量感を表現したのではないだろうか。(註3)。

 

したがって、竹の幹の彩色が稚拙な点は、制作の中心人物であり、彩色技術の未熟な等秀が、師である等伯の表現特徴(彩色によって輪郭線を隠す)を真似たための出来栄えと思われる。

 

 

 

 

 ⑤扇の馬の筆者に久蔵を想定したから、おそらくは一貫性をもち、全画面右から5扇目に位置するこの⑧扇の馬は、久蔵の担当であったと思われる。

 

しかしこの馬は、久蔵筆とした②⑤扇の馬と比べて、体部の彩色には塗りムラのある仕上がりを見せている。

 

その体部の彩色とは対照的に、馬の「たてがみ」には数多くの線(太細)を用いて、他のどの馬よりも、大変入念に描かれている。

 

そして、馬の顔の彩色の濃淡の色調は、等伯筆とした①扇の馬に近い。

 

したがってこれらの点から、この⑧扇の馬の担当は久蔵であっても、「馬の体部の彩色を施した人物」と「たてがみや顔などを描いた人物」は、別人であったと考えられる。

 

 

 

 ④扇の馬の筆者に等秀を想定したから、 おそらくは一貫性をもち、全画面右から4扇目に位置するこの⑨扇の馬は、等秀の担当であったと思われる。

 

しかしこれまで等秀筆とした馬は、いずれもたくましい馬であったのに対して、この馬からは、そのようなたくましさは感じられない。

 

そのため、筆者を同一の等秀とするには問題がある。しかし、このような出来栄えの馬があえて、右隻画面の中心部に描かれていることから、等秀は久蔵とは反対に「老いた馬」を描いたと解釈したい。

 

 

 

 ②扇の馬の筆者に久蔵を想定したから、おそらくは一貫性をもち、全画面右から2扇目に位置するこの⑪扇の馬は、久蔵の担当であったと思われる。

 

しかしこの馬は、久蔵筆とした②⑤扇の馬と表現手法が異なり、墨線によって各部分を表す、等秀筆とした⑩扇の馬と近い手法で描かれている。

 

 本作品よりも以前に制作されたクリーブランド美術館や京都・本国寺が所蔵する厩図屏風では、胸の輪郭がゆるやかなD型であるのに対し、本作品では段をもつB型で描かれている。

この段をもつB型の胸の輪郭は、胸の輪郭を描くことができない④扇の馬を除く、等秀筆としたすべての馬に共通しており、久蔵筆とした⑤扇の馬は前代と同じD型で描かれている。

 

また、馬の体部と腹部の毛色が若干異なる特色は、等秀筆とした③④⑥・⑩扇の馬に通ずる傾向にある。

 

それゆえ、その表現手法や細部の描写および毛色の特色から、この⑪扇の馬は久蔵の担当であっても、その筆者には、等秀が関与することを考慮する。

 

 

 

 ①扇の馬の筆者に等伯を想定したから、おそらくは一貫性をもち、全画面の最も右端に位置するこの⑫扇の馬は、等伯の担当であったと思われる。

 

この⑫扇に描かれた馬は、等伯筆とした①扇の馬と同じく、輪郭線を明確に見せず、色調によって馬の質感を表現する。

 

しかしその彩色は、①扇の馬と、同調するほどの出来栄えを見せてはいない。

そのため、①扇の馬を等伯一人の制作とすると、この⑫扇の馬には、別の人物が制作に関与したと考えられる。

 

この馬も、前代の厩図屏風と比較すると、胸部周辺の輪郭が異なり、等秀の特色とした段をもつB型で描かれている。

 

したがってこれらの点から、この⑫扇の馬は等伯の担当であっても、その制作には、⑪扇の馬と同様に等秀が関与することを考慮する。

 

 

 

 【まとめ】

 

 これまで述べた全十二頭の馬を照合して、本作品の制作途中に、長谷川久蔵が死没しているのではないかと思う。その解釈として下記のように考えている。

 

 

 

 久蔵の担当であったと推測する⑧扇の馬は、久蔵によって、すでに彩色が施されていたため、急死した久蔵に代わり、その後、制作の中心人物である等秀が制作したのではないかと思う。

そのため⑧扇の馬の腹部は、等伯に近い輪郭線を見せない久蔵の表現特色を示し、効果的ではないにもかかわらず濃い馬の彩色の上から、墨線による筋肉隆起の表現を原則とする等秀によって制作され、色調を主とする久蔵の表現手法を変更し、彩色技術の劣る等秀が制作したために、塗りムラのある仕上がりを見せるのではないかと思う。

すなわち、久蔵の表現特色と等秀の表現手法が、混同して描かれたのが、⑧扇の馬と考えている。

 

 同じく久蔵の担当であったと推測する⑪扇の馬を、等秀が制作に関与するのは、下書きの段階で久蔵が死没したため、その後久蔵に代わり、等秀が自分の得意とする表現手法を用いて制作したのではないかと思う。

それゆえ久蔵が急死しなければ、⑪扇に描かれた馬は、久蔵筆とした左隻⑤扇の馬と同じくD型の胸の輪郭をもち、②⑤・⑧扇の馬と同様に、線による筋肉隆起の表現が単純明快に見られない濃い彩色が施される予定であったと考えられる。

 

 等伯の担当であったと推測する⑫扇の馬が、等伯筆とした①扇の馬ほどの出来栄えを見せないのは、長男を喪った等伯は、本作品の制作から一時退いたと推測し、その後、等伯に代わり、彩色技術の劣る等秀が、師である等伯の表現手法を継承したまま、制作したためではないかと思う。

(制作の中心人物である等秀は、結局、右隻画面全六頭中において計五頭をも制作する)

 

 左隻画面の馬の制作には参加していない等学が、唯一⑦扇の馬を制作するのは、久蔵が死没して、等伯までもが制作を退き、等秀一人が制作する事態となったため、本作品の制作には参加する予定ではなかった等学が、急遽、本作品の制作に参加して、⑦扇の馬を一頭だけ制作したのだと思う。

それゆえ等学は、久蔵が急死しなければ、左隻画面と同じく、本作品の制作には参加していなかったと思われる。

したがって本来であれば⑦扇の馬は、狩野派風な表現であるr型の胸の筋肉描写をもたず、⑥扇の馬を担当する等秀によって制作され、等秀筆とした③⑥扇の馬と同じく、鮮明に体部と腹部の毛色を塗り分ける予定であったと考えられる。

 

 

 

①扇と⑧扇

 久蔵の担当であった⑧扇の馬の顔の表現と、等伯筆とした①扇の馬の顔の表現が近似する要因は、本作品の完成を間近に控え、制作の責任者である等伯が、再び本作品の制作に参加して、亡き長男の担当であった馬の「たてがみや顔」などの要所部を入念に描いたのだと思う。

 

それゆえ、同じく久蔵の担当である⑪扇の馬や、等伯自身の担当でもあった⑫扇の馬の要所部にも、等伯が制作に関与する可能性が強い。

その部分として⑫扇の馬の口部をあげたい。

 

 

 本作品は水墨画ではないため、そのままの筆致を見ることは出来ない。しかし、一筆による太細が強調された鼻の複雑な曲線は、鎌倉時代以降に描かれた仏画の着衣の線にも通ずる特質をもつ。

その肥痩線を効果的に用い、描く技術を備えもつ人物としては、やはり絵仏師としての経験をもつ等伯だったのではないかと私は思う。

 

ゆえに、等伯は本作品の完成間近に、この⑫扇の馬の口部を描き、それと前後して、⑪⑫扇に主体を置く「松樹と桜樹の幹」を描いたと思う。(註4)

 

 

 

 最終的に等伯次男の宗宅については、本作品の制作に参加していない。その理由として、智積院障壁画制作は、主に等伯、久蔵、等秀、等学らの四人の画家によって制作され、宗宅は制作に参加していないと考えられてる(註5)。したがって、智積院障壁画と同じ人物らよって制作され、制作時期も重なると考えられる本作品においても、同様であったと思われる。

 

 

 以上の個人的な一解釈から本作品の完成は、長谷川久蔵が二十六歳で死没する文禄二年六月十五日以降となる文禄二年または三年を想定したい(註6)。高田昇

 

 

 

 追記 

 本作品は、滋賀県にある日吉大社の牛尾宮に安置されたのち、同社東本宮に伝わったものとする伝承をもつ。

現在の東本宮は、織田信長による比叡山焼討ち後の文禄二年に再建され、東本宮拝殿は文禄四年に再建されている(天台座主記)。

最も興味深い点として、同社では春に日吉山王祭があり、その祭事には午(うま)の神事が行われている。本作品には、馬や猿の他にも、季節を表す桜樹が描かれ、同社と深く関連する項目がいくつもある。そのため元来は、「午の神事」において、本作品が東本宮に祭祀されていた可能性も考えられる。

 

 

 

〔註〕

1 桃山絵画研究 山根有三著作集六 長谷川等秀・等学研究 二、柳橋水車図屏風の典型の成立と普及 参照

 

2 厩図太平記 中島純司 日本絵画の研究 参照

 

3 本作品よりも以前に制作された宮内庁が所蔵する厩図屏風では、③⑥扇の馬は、いずれも単一の毛色。

 

4 ⑫扇の馬の目は、円形で表現したのち、三日月形に描き直す。それは⑫扇の馬の口部を等伯が描く際に、等伯によって描き直された可能性が考えられる。

 

5 桃山絵画研究 山根有三著作集六 参照

 

6 なお智積院障壁画と本作品を並列して見比べると、色彩感覚の近似性が感じられる。