もう20年以上も前に流行った本をいまごろ初めて読んでみた。
親しいひとの死の迎え方について何か重要なことが書かれているのではないかと思って。
まあいいことは書いてあるような気がするけど
残念ながらいまのぼくの胸を打つことはなかった。
この本はかなり流行ったと思うから
以後
この本の内容に影響を受けた作品はたくさん世に出ているはずで
ぼくもそれらに触れる機会は何度もあったと思う。
だから特にあたらしい発想とか考え方を見つけることができなかったんだと思う。
それにしても贅沢な死の迎え方だ。
もちろん本人は苦しいときもあっただろうが
訪ねてくるひとが何人もいて
自分を愛してくれているのがはっきりとわかっているひとが何人もいて
そのひとたちと死までの何か月間かを過ごせるというのは
誰でも簡単にできることじゃない。
もともと資産があり
しかもこの本を出版するという前提で前払い金も手に入れ
医療・介護スタッフに囲まれながらの死への道行き。
20年以上経った現在の日本では
介護難民とかなんとか
ぎりぎりのところで死を迎えるひとがたくさんいる。
もちろん20年前のアメリカでだってそうだったんだろう。
ってちょっと皮肉なことばかり書いてきたけど
いいこともたくさん書いてあった。
目新しくないけどそれらは
訳者のあとがきにていねいにピックアップされているので
それで振り返ればよくわかる。
それにしても。
2020年も間近の日本。
どんなふうに死を迎えるのがオーソドックスになっているのだろう。
理想は
ソクラテスが死ぬときみたいに
好きなひとたちに囲まれて
お別れの話をしながら
毒をくいっとあおって
すぐに旅立つ
っていうのだけど
毒で死ぬっていうのが難しいし
好きなひとたちに囲まれるっていうのも難しそう。
それができるように生きるのが大事なのかもしれないけど
よく死ぬために生きるっていうのもなんか違う気がする。
よく生きてたら
けっかとして
よい死を迎えられた
っていうのがいいな。
でもそれも難しいなら
しずかにひっそりとさわぎたてずに死にたいな。
ひとつだけ書き留めておくとしたら
すきなひとと語り合うことがいちばんしあわせなことだから
生きているあいだはなによりもそれをだいじにしたい
っていうのをあらためて確認したってことかな。
--モリー先生との火曜日--
ミッチ・アルボム
別宮貞徳 訳