今朝のテレビで誰かが言っていた。
暴力を無効化する方法が必要だ。
報復に報復を重ねる。
復讐の連鎖。
どちらが先に不当な行為を行ったか。
歴史の記録も後世のひとの解釈次第。
当事者は自分に都合のいい記録のみを主張する。
誰かが復讐の連鎖を断ち切らなくては。
争いでは何も解決しない。
それはその通り。
しかし自分が当事者になった瞬間にこれらの主張は忘れられる。
たとえば家族が犠牲になったときに相手への復讐心を抱かずにいられるか。
もしもそんなことができたならそのひとは冷たいひとだと言われるだろう。
どちらが先に不当な行為を行ったかなんて関係ない。
自分の家族が犠牲になれば迷うことなく自分たちは被害者で相手は加害者だ。
先に手を出してきたのは奴らだ。
もしも自分の国が奴らの組織を攻撃しそれが原因で奴らの仲間の命が奪われたとしてもなぜ自分の家族が犠牲にならなければならないのか。
自分の家族を傷つけた奴らにどうして寛容でいられよう。
自分の国が彼らの仲間を傷つけたのだから自分の家族が傷つけられてもやむを得ないなんて誰が言えよう。
価値観と価値観との争いがやがては個人と個人のうらみつらみの復讐の連鎖。
もはや誰が最初に手を出したかなんてわからない。
当事者はいつも相手が先に手を出したと言う。
それは昨日、先月、去年、10年前、100年前、1000年前、2000年前とさかのぼる復讐の歴史。
暴力はなぜなくならないか。
暴力によって何らかの目的を達成することができるからだ。
たとえば相手の姿勢や行動を変えさせることができる。
たとえば相手に自分を認めさせる。
たとえば相手が自分との交渉を求めてくる。
たとえば相手が自分への攻撃の手を緩める。
暴力を無効化する。
暴力では何も変わらないことを相手に悟らせる。
暴力には屈しない。
言うのは簡単だ。
反撃もせずに相手の暴力を受け続けそして相手に暴力ではこちらの姿勢や行動は変わらないということを示す。
そんなことは可能なのだろうか。
暴力を無効化する方法。
あらたな思想。
非常に難しいチャレンジだ。
人類がそのステージに移るためにはまだあとどれくらいの暴力が繰り返されなければならないのだろう。