プライオリティ | (本好きな)かめのあゆみ

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かしこいカシオペイアになってモモを手助けしたい。

前の記事で

大規模災害時には助けるべき場合と涙をのんで見送るべき場合とがある

みたいなことを

さも真理であるかのように書いておいてなんなのだが

さっそくこのことばに自分で揺れている。


目の前で助けを求めているひとに対して

そんな冷静な判断なんて可能なんだろうか。


そして

可能だとしてもそうするべきなんだろうか。


何様? って感じになりそうにも思う。


目の前で助けを求めているひとを助けようとしなかったら後悔が残りそうだし

もし助けられたらそれはたとえ一人でも自分にとってはやりがいのあることだし

そのひとをたいせつに思うひとにとってはかけがえのない命だし。


でも

助けた後で

もしあそこで助けるのを見送っておけばそのあとにさらに多くのひとを救えたかもしれない

という客観的な事実が判明した場合

どう考えればいいのだろう。


むずかしい。


むずかしい。


これは倫理的な問題というか

生き方の問題だな。


こういうことに法的な責任とかそういうのはなじまないような気がする。


ひとを助けるのが職業であるひとに対しても

これを事前のマニュアルで示して

この通りにしなかったら違反なので

責任をとらなければならない

なんて決められたら人間性を否定していることにならないのだろうか。


“ボーダーライン”のなかで

救急隊員と市民が火災現場に取り残された場合

救助隊員は仲間の救急隊員よりも市民から先に助ける

という暗黙のルールがあることをとりあげていたが

これもきわめて難しい判断だなと思う。


一般市民の利益からしても

多くの人命を救えるスキルと経験のある救急隊員の命と

どこの誰だかわからない市民の命なら

どちらがたいせつか。


でも

忘れてはいけないのは

どこの誰だかわからない市民というのは

いつかは自分や自分の家族あるいは友人であるかもしれないということだ。


自分の価値をいかに客観的にみられるか。


けれどこういう考え方を突き詰めていくと

役に立つ人間とそうでない人間を一時的かつ限定的であるにせよ峻別することにもなるし

ぼくが嫌悪する

同調圧力とか全体主義とかにもつながっていきそうで

だからやっぱり

愚かで無力な存在である人間ごときが

命のプライオリティなどを決めてはいけないような気がするのである。


社会や組織が求める価値判断と

個人が持っている価値観の衝突。


それは一致すべきなのかその必要はないのか。


いやあやっぱりむずかしい。


高度に倫理的な問題だ

なんて知ったふうなことをついいいたくもなる。


けれども

それで落ち着いたら何も前に進まないし。


いずれにしても

こういうことを判断しなければならない場面が

いつかぼくにだって訪れる可能性はあるんだよな。