西加奈子さんが、とてもとても強い思いを込めて新聞で紹介していたこの本を読んでみた。
ああ、おっしゃるとおり。
本は、読んでいるぼくたちを、ここではない世界、いまではない時間に連れて行ってくれる。
そしてぼくは、モノローグで語る主人公の少女、マティルダをじっとみつめる何者かになるのであった。
1990年初頭、マティルダの暮らす村のある島、ブーゲンヴィル島は、パプア・ニューギニア政府によって封鎖され、政府側の軍隊であるレッドスキンと、独立を目指す革命軍であるランボーの抗争に巻き込まれた。
そんななか、島に住む唯一の白人、ミスター・ワッツが、教師のいなくなった学校に村のこどもたちを集め、ディケンズの小説“大いなる遺産”を朗読する授業を始める。
初めて本のすばらしさに触れるこどもたち。
マティルダもこの小説の虜になる。
小説の主人公、ピップに感情が入り込む。
そんななか、ますます激化する独立抗争。
やがて、村の人々は恐ろしい悲劇に見舞われる。
ほんの1行だけだけど思わぬところで旧日本軍が関わっていたりしてドキリとする。
いやあ、もうねえ、暴力は絶対にだめだって。
こういう苦しさや悲しさは人間として生み出しちゃあいけないって。
なんでこういうことになっちゃうんだろうねえ。
きっとね、この小説に描かれていること以上のことが現実では起こっているんだと思うんだよね。
レッドスキンもランボーも、普通の時代だったら、普通の暮らしをしているひとたちなんだと思うんだよ。
家族を愛して、友人を大切にして、って。
ぼくたちと同じ。
そりゃあ、ときどきは度が過ぎて道を踏み外すこともあるだろうけど、戦場(独立抗争だ、内戦だ、っていっても結局は戦争に違いない。)でのこのような残虐なことは、絶対にしたくないはずなんだよ。
でもだんだん麻痺しちゃうというか、味方が残虐な目に遭わされたら、さらに残虐にやり返すという、戻れない報復合戦になってしまうんだよな。
そして何も関わりのない村人たちへも疑心が湧いて。
それに疲労と恐怖で判断力もおかしくなってくるし。
こういうの、これまでの人類の経験で、わかっちゃってるわけだから。
いくら、人道に関する国際協定を結んだところで、生き死にを賭けた現場ではそういう理性を保てなくなるんだから。
正直なところ、ぼくだって戦場に飛び込んだら何をしでかすかわからない。
だからこそ、そもそも戦争状態にならないようにするのが政治の使命だと思うんだよね。
で、あと、戦争の厭なところは、戦争状態じゃないときの人間同士の確執みたいなものが、戦争を言い訳にどさくさにまぎれてエスカレートするところ。
マティルダのお母さんと、ミスター・ワッツとの確執なんかも、そもそも独立抗争とは関係のないところから始まっていて、それが独立抗争を利用して、相手を困らせるという厭な展開になったりして。
それにしても、マティルダのお母さんがあのときにとった行動っていうのは正しかったのかな?
あのときそうしなかったらどうなったんだろう?
信仰するひとにとって神との契約ってどういうものなんだろう?
ミスター・ワッツも手放しで賞賛できる人物ではないような気がするし。
最終章は蛇足かな、っていうふうに読み始めは思ったけど、やっぱりあれは重要だな。
ディケンズの“大いなる遺産”は読んだことがないけれども、物語の切れ端を集める、っていう作業はとても大切なことだと思った。
つい、次から次へとあたらしい本を読み進めてしまい、1冊の本をとことん何度も読み返す、ってあんまりしないから。
マティルダたちの1冊の本への一途な気持ちっていうのは、もしかしたらとても羨ましいことなのかもしれない。
西加奈子さんの、この本を読んでいるあいだマティルダに同化してページをめくる指が震えてきてつらい読書だったけれども本を閉じたときにみえたこの世界いまの時間っていうのはそれまでと違っていた、っていう感覚はぼくにもわかる。
だって本ってそういうもんだし、だからやめられないんだし。
――ミスター・ピップ――
ロイド・ジョーンズ
大友りお 訳