蜂飼耳。
この風変わりな文字の並びは、何を意味するか。
作者の名前である。
では何と読むか。
たとえば“土耳古”と書いて“トルコ”と読ませるように、少々ムリのある読ませ方なのではないか、と思いきや、何のことはない。
はちかいみみ。
そう読む。
なんだかかわいい。
詩人をあらわす名前にふさわしいような。
ぼくがこの名前を初めて知ったのは、新聞の書評欄でだった。
蜂飼さんの作品の紹介ではなくて、蜂飼さんが他の作家の作品を書評していた記事。
その書評の着眼点や、文章の雰囲気に興味をそそられた。
そしてようやく手にした初蜂飼耳作品がこれだ。
空席日誌。
見開き2ページでだいたい原稿用紙3枚くらいのボリュームの、エッセイのような小説のような詩のような文章が45編、それらに混じって空席Aから空席Cと題した10ページ強の掌編小説みたいな文章が3編、掲載されている。
あまりにも先鋭的で芸術的な詩というものにはどうにもついていけないのだが、この作品群はとても読みやすい。
もちろん、現代詩に分類されるので、ある程度には特殊な文章なのであるが、なんとなく自分でも書けそうに思えるくらい、わかりやすい。
で、ちょっと書いてみようとしたが、当然のように書けなかった。
あたりまえである。
読むのと書くのとは、まったくレベルが違うのである。
しかし、思えば、ぼくの好きな作家さんたちの作品に共通するのは、ぼくにも書けそう、と感じるところなのである。
ということは、自分の感性と似た部分をこれらの作家さんたちが巧みに表現してくれている、ということの証拠なのだろう。
この空席日誌もその例にもれず、ひとつひとつの作品は地味に淡々と描かれているだけなのに、その全体がぼくをよろこばせるのである。
夢中になって読み耽るような、派手な物語ではないのだが、読んでいるあいだ、気持ちがよくなる。
そもそも物語でもなんでもなくて、断片的な心象風景の連続なのだが。
ゆたかな表現の海に、浮かんでいるような気分。
誰かの経験と自分の経験がごちゃまぜになるような錯覚。
不思議な作品だ。
全体を通してたしかに空席日誌だ。
特に印象に残っている作品をメモしておく。
砕ける音
空席A 岸壁の掟
うどんのような
地動説
空席B 長谷大仏
猪目洞窟
ゲイシール
空席C ユリ根貿易
それでも竹は光る
名古屋のおまけ
猫という猫
――空席日誌――
蜂飼耳