男子100メートル走と女子100メートル走。
あるいは男子マラソンと女子マラソン。
これはオーケー。
なにがオーケーかというと、区別するのが妥当ということ。
100メートル走で男女の区別がないと、おそらくオリンピックの決勝は男子ばかりになってしまうから。
それはおおかたのスポーツ競技でも同様なのだろう。
からだの構造だけはいかんともしがたい。
フェミニストのみなさんも納得するに違いない。
バレーボールやサッカーなんかも男女を区別しても大丈夫。
ゴルフはどうか?
これもプロでは男女の飛距離が違うから仕方ない。
馬術や射撃なんかはなんとなく男女で差がないような気がするがどうなのだろう?
まあ、全般的にからだを用いるもので男女を区別するのはいたしかたないというのが世間の共通理解のような気がする。
では、作家はどうだろうか?
男子の部、女子の部とわける理由は思いつかない。
社会的な存在として生きてきたフィールドが異なるので、男性的な作品と女性的な作品というのはわかれるかもしれないが、それでも一緒の土俵で競えるし、じっさいに売り上げには作家の違いがあるだけで男女の違いはないと思う。
もしかしたらノーベル文学賞の受賞者は男性が多いのかもしれないが、それは選考の過程や、そもそも女性が作家として生きていく社会的な土壌が成熟しているか否かというややこしい問題を含んでいるので、判断材料にはそぐわないだろう。
あたまを使って競うものは、からだを使って競うものと比べると、男女の違いの有無を考えるのが難しいような気がする。
とまあ、こういうことをなぜ書いているかというと、将棋の世界の男女の区別に違和感を抱いたからだ。
将棋の世界でプロは、棋士と女流棋士とにわけられる。
棋士には男女どちらでもなれるのだが、いまだに女性の棋士は誕生していない。
いるのは女流棋士だけ。
かなりややこしいが、奨励会に入会して四段になれば棋士になれるらしい。
しかし、これまでに四段になった女性はいないという。
同じ四段でも、棋士の制度の四段と、女流棋士の制度の四段では実力が違う。
不思議なのは、学校のお勉強の世界では、女子の方が男子よりも成績がよいことはよくある話で、個人差はあっても、あまり男女の差というものはないような印象を抱いていたのだが、将棋の世界は学校のお勉強の世界とは違うということなのだろうか。
将棋はそうとうな集中力と持続力を必要とするというので、あたまがいいだけではなくて、体力というのも必要ということなのだろうか。
もうひとつ不思議なのは、女流棋士のみなさんも、棋士ではなく女流棋士であることを甘んじて受け入れているように思えることだ。
いまふうに言えば、男なんかに負けてられるか、とものすごく頑張って男の世界に入っていくタイプの女性がいてもおかしくないと思うのだが。
そもそも棋士の制度は女性を排除しているわけではないし。
もしかしたら、出雲のイナズマこと里見香奈さんなんかは、それを目指して奨励会で頑張っているのかもしれない。
ぜひ、棋士になってほしい。
話を戻すと、将棋もやはり体力が重要だから男女の区別は仕方がないのか、あるいは、平等のように見えて実は女性には不利な仕組みになっているのか、そのへんどうなんでしょ?
なんだか不思議。