aとbとの選択の積み重ねでめきめきと育っていく珊瑚のイメージだろうか。
わずかに光の降り注ぐ青暗い記憶の海の中でゆらゆらとしずかにたゆたっている。
幼きころの記憶を育ちたるのちに回顧するとき、ともすればその後に覚えた知恵のある言葉によって補われ改変されてしまいがちなところ、この作品ではそういった便利な言葉は徹底的にしりぞけられ遠ざけられ、あくまでも幼きころに感じた名状しがたくもそうであるとしかいいようのない感覚そのままを、その当時の感じ方に忠実に近づけつつ再現しよう保存しようと試みられている。
読みにくい伝わりにくいと拒否されることを恐れずになされたこの試みは、冒頭いくぶん戸惑いは覚えつつもぼくにとっては難なくしっくりと体内に沁みこんできたのだった。
川上未映子さんがこの作品に感激していたこともうなずける。
未映子さんの詩の表現にどこか通じる感覚的な文体である。
幼きころに母を失い、父とふたりで暮らしていた娘の生活世界に、不自然に侵入してきた家事係の女は、それまでのふたりの世界をことごとく破壊していく。
そういう物語性はあるものの、物語そのものよりもその表現技法に身を任せ、海中の珊瑚のようにおおきなうねりに洗われる心地よさを感じていたい。
過去と現在と未来とを一直線でつなぐ男の時間感覚と、過去と現在と未来とが常に隔てなくいまここにある女のそれとの違いをあらためて感じた作品でもある。
ぼくは満月たちの項が特に印象に残っている。
これ1作でも世に残せたことは、束の間で消えていく何百もの作品を描くひとと比べるまでもなく、作者の至福に相違ない。
――abさんご――
黒田夏子