初詣に行ってきた。
初詣の際にご祈祷もお願いし始めたのが3年前。
4回目となるがやめるタイミングがわからない。
どうにかこうにか無事に過ごせているので効果があるということか。
やめてすぐに何かが起こると悔しいのでやめるにやめられなくなっている。
これがご祈祷マジック。
ところでぼくはこのご祈祷に行く際にはなんとなく神社に行っているつもりになっている。
しかしご祈祷の部屋に僧侶があらわれてようやく、ああここはお寺だったのだ、と思い出す。
もう4回目なのにいい加減慣れてください、ぼく。
いまだに神社とお寺の区別がつかないよ。
だっておみくじとか売ってるところには巫女さんみたいな女性たちがいるんだもの。
ご祈祷の受け付けも巫女さんみたいな女性。
あの白衣と緋袴は巫女装束なんですよね?
お寺にも巫女さんっているの?
ちなみにぼくの行っているお寺の本尊は不動明王とのこと。
不動明王ってどんな位置づけ?
まあ信仰もなにもあったもんじゃなくて単にネットでご祈祷をしている近所のところをさがして見つけただけのところですので。
神社とお寺の区別さえもついていませんので。
とはいえそこに4回も律儀に通っているぼくはまるで犬のよう。
と、まあ、ぶつくさ言ってはいるものの、ぼくはこの、年に1度のご祈祷の時間が好き。
正座で20分っていうのも1年のうちでこのときぐらい。
痛いけど、痺れるけど、すぐには立ち上がれないけど、気持ちいい。
読経の時間はライヴ。
二人の僧侶による読経のハーモニー。
法螺貝、太鼓、かねによる演奏。
暗い畳の部屋、護摩の炎、御幣による祓い清め。
オーディエンスはそのパフォーマンスの力を借りて祈る。
祈りはひとそれぞれ。
誰に祈っているのかはよくわからない。
不動明王?
そうかもしれない。
でも違うかもしれない。
相手が誰でもかまわない。
祈ることは思うこと。
自分で念じることに意味がある。
ぼくなんてそもそも何も祈っていない。
ただこの空間、時間を注視しているだけ。
静かに静かにひたすら静かに護摩の炎を見つめ読経の音を聴いているだけ。
読経が済んで僧侶が言う。
この部屋のなかには山、水、炎、土と自然を模したものがたくさんある。
自然の力をみずからに取り込もうというのがこの祈祷の時間。
それはこの部屋を出てからのいつもの暮らしのなかでも同じこと。
魔物はどこにいるか?
外にはいない、自分の内側にいる。
魔物は普段は自分の奥で息をひそめて静かにしているが油断すると喜んであらわれてくる。
魔がさすとはその状態のこと。
自分の魔物に隙をみせないように毎日を過ごすのは簡単なことではない。
けれども今日のこの時間を思い出して自分の魔物を封じるよう努めてみてはいかがでしょう。
うん、その感じ、よくわかる。
自然の力を自らに取り込むこと、自分のなかの魔物に隙をみせないこと。
どうせ日常のあれやこれやにまぎれてすぐに忘れてしまうだろうけれども、年に1度のこの時間、今日もきてよかったよかった。
そういえば受験生らしき少年もいたな。
見知らぬ彼にも幸があらんことを祈ってみる。