答えの出ない
永遠のテーマです。
永遠のテーマであるということは
そのときどきで
その場所場所で
それぞれが気の済む
答えを模索し続けなければならない
ということです。
だいぶ前の新聞で
宗教学者の山折哲雄さんが
菊池寛さんの
恩讐の彼方に
と
ある抗議書
さらに
韓国映画の
シークレット・サンシャイン
を引用して
殺人に対する罰のあり方について
考察しておられました。
恩讐の彼方にでは
主君を殺して逃亡した男が
贖罪のため断崖絶壁に
20年の歳月をかけて
自身がぼろぼろになりながら
道を通した姿をみて
仇討ちのために男を追いかけていた
主君の息子がそれを赦します。
(赦せるパターン)
ある抗議書では
殺人を犯した男が入獄中に
教誨師の教えに触れ
天国にものぼる気持ちになって
刑を執行されたという話をきいた遺族が
納得がいかずやり場のない
悲痛な抗議をぶつけます。
(赦せないパターン)
シークレット・サンシャインでは
家族を殺された遺族が
長い年月をかけてさまざまな厳しい経験を積み
ようやく犯人を赦す気持ちになって面会したとき
犯人から自分はとうの昔に
神によって既に赦されているときかされ
放心していきます。
(赦せないパターン)
山折さんはこれらの作品から
日本や韓国での赦せる赦せないの基準は
犯人の苦しみの程度によるのではないか
といっています。
必ずしも死刑にすれば遺族が満足できる
というわけではないということでしょうか?
人を傷つけておいて自分だけ神から救われる
っていうのは確かに理不尽ですよね
って思うのは偏狭な考え方でしょうか?
そういう意味で犯人には
被害者から赦されるまで苦しみ続けさせるべき
ということでどうでしょう?
更生は贖罪が済んでからということで。
そもそも殺された人の遺族が
被害者かどうかっていう議論もあるでしょうけど。
あと犯罪抑止力としての罰というのも
あるでしょうけど。
思い出したのは
さだまさしさんの
償い
初めて聴いたときは
ずっしりときました。
これは不慮の交通事故で
人を殺してしまった男が
償いきれるわけもないと知りながら
働いて働いて毎月遺族に送金を続け
ようやく7年目に遺族から
あなたの気持ちは分かりました
事故を思い出すのが辛いので
もう送金はやめて
自分の人生を元に戻してください
との手紙を受け取るというもの。
完全に赦されることなんてないでしょうが
ひとつの償いのありようを示しています。