第22話「名前を持つ」
住人としての二日目。
目覚めた瞬間、
何も表示されない視界に、まだ少しだけ違和感があった。
残存時間も、警告も、選択肢もない。
ただ、朝の光。
「……静かだな」
それが、今の世界の正常だった。
市場へ向かう途中、少女が突然立ち止まった。
「ねえ」
「わたし、名前ほしい」
「……あるだろ?」
少女は首を横に振る。
「女神の器、とか……
保険、とか……
そういうのじゃなくて」
俺は、言葉を失った。
彼女はずっと、役割で呼ばれてきた。
器。鍵。保険。娘。
でも——
名前は、まだなかった。
「……じゃあ」
俺は少し考える。
強い名前でも、特別な意味でもなくていい。
ただ、この世界で呼ばれるための音。
「リノ」
少女が瞬きをする。
「……りの?」
「ああ。
理(ことわり)を、野に置く。
世界の理屈に縛られないやつ」
少女——リノは、ゆっくり笑った。
「……へん」
「でも、すき」
その瞬間、胸の奥が温かくなる。
名前をつけるってのは、
こんなにも重いのか。
市場で、神官がこちらを見ていた。
「……その子は?」
リノが、胸を張る。
「リノです」
神官は、少し驚いた後、微笑んだ。
「いい名ですね」
「役割ではなく、名前で呼びましょう」
それだけで、
世界の輪郭が少しだけ変わった気がした。
その日の仕事は、水路の修復だった。
水の流れを整え、石を並べ直す。
何度も手を滑らせ、
何度もやり直す。
でも、今はそれでいい。
途中、リノが水に足を突っ込んで笑った。
「つめたい!」
「風邪ひくぞ」
「へいき!」
その無邪気さが、
世界の続きそのものだった。
夕暮れ、俺は水面を見つめていた。
そこに映るのは、
編集者でも救世主でもない顔。
ただの男。
ロボットが隣に立つ。
「あなたの正式名……未登録……」
「ああ?」
「この世界での名前……未定義……」
そうか。
俺もまた、“役割”で呼ばれていた。
編集者。転生者。選択者。
だが——
住人になるなら、名前がいる。
リノが、こちらを見上げる。
「おにいちゃんも、名前つけよ?」
俺は、少しだけ考えた。
元の名前は、ここには似合わない気がした。
だから——
「……カイ」
「改める、の“改”」
「変えるけど、壊さない」
リノが笑う。
「カイ、へん」
「でも、すき」
その言葉に、俺も笑った。
空気が一瞬だけ揺れる。
——観測者だ。
『記録更新』
『編集者、消失』
『住人、確定』
それだけを残して、気配は消えた。
俺は、リノの頭を軽く叩く。
「帰るぞ」
「うん、カイ」
物語は、終わらない。
ただ、続いていく。
名前を持った俺たちが、
今日を選び続ける限り。
(第一章・完)

