東日本大震災に端を発する福島第一原発事故は原子力発電の安全性に疑義を持たせるには十分な事件だった。原子力発電にまつわる不経済及び不道徳性を5つの段階に分けて考えたい。まず1つ目はウラン鉱山掘削及びウラン濃縮過程における環境負荷と被曝問題、2つ目は原発運用時における放射能放出及び定期点検時の被曝問題、3つ目は原発過酷事故問題、4つ目は廃棄物処理問題である。5つ目は本来の原子力発電では不要なはずプルトニウム抽出及び再利用を行う核燃料再処理過程(プルサーマル計画)における大規模な放射能放出及び危険性がある。高速増殖炉常陽の核燃料製造過程で起きた東海村JCO臨界事故はプルサーマル計画に含まれる。
 大手情報媒体や政策論争で放射性廃棄物処理物の超長期保管問題が注視されているが、それは数多ある問題の一つに過ぎない。現在、即応しなければならないのは福島第一原発の収束処理であり、放出された放射能に対する防御措置である。
 驚きを持って迎えられたのは、チェルノブイリ事故当時共産主義国家であったソ連邦よりも、日本政府の福島第一原発事故対応は緩い基準で避難地域を設け、なおかつ緩い放射能汚染基準で食品を流通させている事である。
水俣病対応の歴史を振り返り、水俣湾を太平洋に見立て、行政責任が問われる水俣の相似形としての福島第一原発事故に対し、行政は総体として不十分な対応と、被害の隠蔽方向に動いているのは確実である。水俣病では熊本大学が有機水銀中毒の病理解明に尽力したが、地元大学の放射能禍対応に先手を打つ形で、福島県立医科大学には御用学者の山下俊一氏が副学長に就任している。
 福島第一原発は「ふくいちライブカメラ」の映像から見て、水蒸気を長時間に噴出させる事象が頻繁に繰り返しており、「地下臨界」を起こしている状態にある。地下に落ち込んだ核燃料に対して、臨界を停止させることは不可能な状態であるにも関わらず、相変わらず他の原発再稼働の動きがある。実際に再稼働させるかどうかはともかく、再稼働を目指して整備を進めれば、費用も人的資源も費やされる。原発草創期に携わった人たちは退職しつつあり、原発の発電設備総体を知る人物は既に居ないとも言われている。国家総体として見れば、原発事故対応に人員を投入すべきであり、他の原発を稼働させる余力はないはずである。
 2012年に見られた世論の反原発の高揚は、既に2014年には退潮気味となっている。一方、被曝による影響は、チェルノブイリ事故の影響を強く受けた、ウクライナやベラルーシの疾病増加経緯を辿れば、日本においても、事故後5年過ぎから、循環器系を中心として様々な疾病が激増すると予想される。
 原発核燃の宿痾を日本国から取り除く事が極めて困難なのは、1つ目に米国が日本に対して原発及びプルサーマルの推進を求めている事、2つ目に行政責任が問われるべき事故に対し、行政側は責任回避に極めて強力に動いている事、3つ目にメディアは原発推進勢力に懐柔されており、メディアに盲従する人民の危機意識もまた低い点にある。原発政策の今後の有り様を問うても、なんら効果が無いのは確定的である。対米従属政策からの転換は国体の変換を意味する。日本は戦後対米従属体制による擬似的な封建体制下にあると考えられる。この体制や価値観からの転換は容易ではない。戦後政治史そのものが、対米自立政治勢力を弾圧する歴史であり、その動きが衰える様子すら伺えない。また、行政はメディアを管理し、メディアは行政の枠内からはみ出ることを行わない。インターネット上では、原発核燃に反対する人々に対して、様々工作が行われている。
 この情勢下で敢えて核燃に異を唱える意義があるとすれば、日本の統治機構が抱える疾患をつまびらかにし、個々人が放射能禍に対する知識を備え、できるだけの対策を取るように誘導する事である。これは私のためであり、みんなのためである。