岩田志乃さんから実践記録が送られてきた    2024,8,20ブログ

 若い仲間の教師・岩田志乃さん(仮名)から実践記録が送られてきた。こんな言葉を添えて。

「お時間があったら読んでください」

 岩田さんは教師になって10年を越している。ある民間教育研究団体の大会で報告したものだという。

 A4用紙横書き2段組で6枚。びっしりと実践が書かれている。

一読して、「いいな!」と思った。

 素敵だったのは、子どもと教師岩田さんとの、リアルで具体的な対話と会話が、大切なことを中心にきちんと描かれているということ。この事実を丁寧に読み進めていくと、その時の教師の思いや、指導のあり方、子どもたちから発せられた言葉そのものの雰囲気、背後にあるその子の願いなどが読み取れる。

 抽象的・概念的な言語で実践が描かれていない。

 その中に描かれた実践事例の一つとして次のような子どもとのやりとりが取り上げられていた。

 学級のある子に対する幾人かの子どもたちの言動の中に“相手を見下すような眼差しや考え方”が見え隠れしているのではないかと気になった岩田さんが、そうした言葉を発する子どもたちと対話を重ねて行く様子が描かれている。

 岩田さんの言葉は、子どもを叱責したり追いつめたりする言い方ではない。どんな思いをしながらその子への対応をしているのか丁寧に対話を繰り返しながらその子たちの内面に迫って行こうとしている。

 聞いていくと子どもたちは、クラス替えの時、前学年の先生から「〇ちゃんのお世話係をよろしくね」と頼まれていたことがわかった。

 岩田さんは、その子たちに言った。

「あーでもそれってさ、先生の仕事だよ」

 そして、続けて言う。

「志乃先生は、残念ながら(〇〇ちゃんを)ちゃんとさせようとおもっていないけどさ、〇〇ちゃんを「ちゃんとさせるのは」先生の仕事。あなたの仕事じゃない」

 子どもたちは、必死に自分のしなければならない仕事として〇〇ちゃんに関わっていた。「○○ちゃん、~しなくちゃダメよ」「○○ちゃん、~しちゃダメ。ちゃんとして!」みたいに。

 この岩田さんの対応は、子どもたちが背負わされていた“本当の意味とは遠い「正義感」”から解放してあげたように思う。この対応がなかったら、『〇〇ちゃん対応のお世話係』をしていた2人は、大人の評価に応える「正義」を取り込んだ“偽りの自分”を身に纏ってしまう危うさがある。共に今を生きる仲間としての感覚や“子どもらしさ”、“自然に生まれる子ども本来のやさしさ”を喪失して。

 他に、詳しくは書かないが、国語の物語文を深く読み合う中で、子どもたちが自分や友だちを意識し成長する姿とか、クラスの問題を岩田さんが絵本にまとめ、自分たちの学級がどういう課題を背負っているかを、見えるようにしてみんなで語り合っていった実践などにも感心した。

                    ※

 ただ、実践記録の最後に、保護者から寄せられた2つの声が掲載されていて、それをどう考えたらよいか岩田さんの悩みが綴られていた。ぼくは、岩田さんが、自らの悩みを率直に実践記録に記したことに深い敬意を払いたい。自らの教師としての生き方を真に見つめようとしているのだ。

 さて、その2つの声は次のようなものだ。

 1つは、ある男の子の声。「志乃先生は、ぼくだけ、いっつも授業を同じ【さん】で呼ぶ」

 1つは、「うちのカホ、先生が怖いっていうんです。昨日の夜、『算数プリント忘れた。絶対先生に怒られる』といって泣き出したのの。でね、きょう帰って来たらそんなプリントなかったって。これってある種の脅迫観念ですよね」

 この子どもたちの呟かれた声に対し、自己の教師としての生き方が問われているのではないかと岩田さんは考える。

 ぼくは、実践記録を読んだだけなので岩田さんの報告を直接聞いたわけではない。ぼくの推論が当たっているかはわからないけど、実践記録を読んだ感想を送った時、最後にこんな文章を付け加えた。

                   ※

《岩田さんへ…山﨑より》 

 …途中は略…

実践記録の最後に保護者からの声が載っていましたね。志乃ちゃん先生への願いのような。

(1)ぼくだけいっつも授業で「さん」で呼ばれる。

(2)うちのカホ、先生が怖いっていうんです。

 これは、志乃さんがすでに一定の解決ずみのことだろうと思ってよみましたが、ぼくが感じたことを記しておきます。

                     ※

(1)の方は、ぼくにも覚えがあって、親しみをこめているけれど、ついそう呼びたくなる雰囲気を持つ子がいるんだよね。それは、教室で生きる日々の中で具体的に伝えて行けばいいよね。他のみんなと同じように大切におもっていること。まあ、彼と新しい呼び名を考えて呼び合うのもいいけどね。

(2)カホさんのデリケートな感覚は、少しわかる気がします。志乃さんの対話スタイルの中に強く迫る様子はまったくないし、その子の言い分を丁寧に聞き取る姿勢があってこの姿勢はいいなと思います。

しかし、理論的・論理的な読み解き方が背後に流れていて、この筋道だった対話の流れがユカさんにとっては自分の心をすべて明らかにせざるをえないような“怖さ”を感じてしまったのではないか…ということ。

そういう点では、志乃さんの指導スタイルの中に、ドジやすき間、ちょっとした遊びがあってもいいのかもねと思いました。(当たっていないかな…だったらごめんね)

 今回のレポートではわかりませんでしたが、志乃さんが子どもたちと子どもになって遊ぶ、“先生ったらしょうがないなあ”みたいな生の子どものような姿を見せて、楽しみ合う時間、はっちゃけるような時間があってもといいなと思いました。(※ここは勝手なぼくの言葉で申し訳ないけどね…)

 こんな手紙を送った。

 ぼくにとって、こんなふうに実践記録を送ってもらえたことは、とてもうれしいことだった。