ラグビーの監督であったエディー・ジョーンズが、勝った後の誇らしい気持ちをまずイメージしてから、今を努力しろと言っていた。

 

安っぽいエピソードかも知れないが、ビル・クリントンはアーカンソー州で子供時代に、JFKと握手をしたのだという。その時に、自分は大統領になるんだなあと思ったという。ヒラリーはなろうなろうとして、なれなかった。

 

ある医学生が奇跡の癌サバイバーの方(きっと、医学的には確率の問題だから、医師の余命の見通しから大きく外れたということに過ぎないのだろうが)に連続インタビューをした話を聞いたことがある。その人たちは、癌との闘病生活ではなく、治った後にこういうことをしたいというのを、ありありと思い浮かべて考えていたという。要は、治ることは前提になっていたのだという。

 

迷信めいたことは言いたくないのだが、上の話に共通しているのは、もっとずっと先を考えていて、当面の目標はクリアするのが当然だという確信があったということだろう。そのために今を組み立てる。ずっとここに止まっている暇はない。ここは通過点に過ぎないのだから。


日本社会には生真面目な人が多いから、目の前のことをとりあえずこなそうとする。場合によっては、そこの文脈に浸り切って、視野狭窄に陥り、気分が落ち込んだり、追い込まれ過ぎたりする。ムラの中が人生のすべてのような気持ちになって、そこでうまくいかないと人生が終わってしまうように思う人もいる。永田町や大手町など、はたから見て大きな舞台に思えても、主観的にムラ意識があれば、同じ振る舞いになる。


エディーが言う通り、我々はもっと心の中の理想を言葉にした方が良いと思う。別にメディアやSNSで言う必要はないが、少なくとも自分の心の中では、夢を言葉にした方が良いと思う。自分がなりたいもの、なりたい状況、人生で成し遂げたいこと、それを言葉にして自分の心にありありと感じた上で、今の苦しみに耐える。苦しい練習をする。ほんとに何かを成し遂げようすれば、残念ながら、相当な練習をしなくてはいけない。他の人と同じことをやれば、他の人と同じ程度にしかならない。才能才覚は人それぞれだが、それを生かし切るか否かは、訓練のみだ。それに耐えるためには、気分の良いゴールのイメージが大事なのだと思う。


夢を描くなんてのは、今の日本では否定されそうだけど、僕が思うのは肩肘張った夢を見ろということではなくて、もっと、自分の欲が欲する理想的な絵を思い描いてみたらどうかということだ。無理に持つものではなく、内側から湧いてくるもの。それを持つ人が少なくなってるのだとしたら、日本の社会には子供たち、いや、大人にも、内的な動機が発生しにくい何かがあるのだと思う。楽しい時はそれで良いのだが、心が落ち込んだ時に、それでも人間が意欲的に生きられるか、あるいは生きている意味を感じられらるかというのは、なかなか切実な問題だと思う。


要はある種の思い込みが必要だということだ。自分は当然、そのゴールまでいける。遥か遠いがいけることは決まっている。だから、こんなところにずっとかかずりあいになってる場合でもなく、こんな奴らと、醜い争いをしている場合でもない。つまらない毀誉褒貶や不愉快な振る舞いをする連中は相手にせず、さっさと遠くの目的地に急がねばならない。人生は時間が限られており、あんまりしょうもないところで、時間をとられるわけにはいかないのだ。


そういう心持ちでいる方が、目の前の困難や不愉快をやり過ごせる。低次元の人たち(成績や地位は関係ない)の相手をしている暇はないのだ。こんなところで無駄な時間を過ごしてる暇があったら、やるべきことをさっさと片付けて、行きたい場所へ急ぎなさいということだ。