今年もこの日がやってきました・・・
 
過去記事は「阪神大震災を忘れない為に」書庫でご覧下さい
 
去年は15周年という節目を向かえ、色々と行事もありました
 
今年は数字的には開催数が減っています
 
これには色々な要因があり、前に進む為への発展的解散というものもあります
 
昨年も書きましたが、現在の神戸に住む人の3分の1以上の人が震災を経験していません
 
それでも各地で鎮魂・慰霊の式典なども行われています
 
この時期、こちらの新聞では震災関連の記事が紙面の一部を占めます
 
そんな中気になったものがあったので・・・
 
 
簡単に言えば、地元の小学生の中には震災がいつ(何月何日)起こった事か知らない子がいるという事・・・
 
さらに語り部の人が話しても、「亡くなった人は生き返るんでしょ!?」という子供まで・・・
 
後者の方は、震災にかかわらず死というものをきちんと理解出来ていない子がいるのは聞いた事がありました
 
ただ、こうやって毎年報道され、学校でも震災関連の歌を歌ったりしているにも関わらず
 
いつ震災が起こったのかすら知らない子供がいる事にショックを受けました
 
ただ、こういうことは自分達にも言えることなんだなと思います
 
忘れてはならないと言われながらも、過去の話となっている戦争ですね
 
そう思うと、後世に伝え続ける事がどれだけ難しい事なんだろうと思います
 
 
ニュースという事でもう1つ、調べたら出てくるだろうと思っていたのでメモを取らなかったのです・・・
 
阪神大震災の教訓を生かし、その後に建てられた高層マンション・ビルは耐震性があります
 
しかし、それは阪神大震災のような大きな揺れに対応しているものです
 
小さく・細かく・長く続く、阪神大震災のものと違う種類の揺れがあった時は対応出来ないようです
 
実際、高層ビルに住んでいる方が建物が回ってる感覚があったと証言してます
 
この場合、建物が壊れる事はありませんが、家具などが倒れたり移動したりして
 
被害を大きくする可能性があり、火災も引き起こす事も考えられます
 
阪神大震災の時も、燃えていた長田の町が印象深いように、二次災害での火災というものが多くなります
 
そして、現在耐震の為に使われている素材は高熱に弱いようです
 
アメリカの世界貿易センタービルも、飛行機に衝突された衝撃で崩れたのではなく
 
炎上からの高熱で屋台骨がもろくなり、あのように崩れていったという事を聞いた事があります
 
つまり、震災を教訓に建てた耐震構造の高層マンション・ビルも、また崩れ落ちる可能性があるという事です
 
これからは震災を伝える事だけではなく、数十年の間に来ると言われている東南海地震への対策も必要です
 
そう考えると、今後起こりうる大地震から、被害を最小限に食い止めるためにも
 
阪神大震災がどういうものであったか、伝えていくことも大事だと思います
 
 
個人的な事を書きますと、16年前のあの日の後、体のだるさを感じ病院に行くとインフルエンザ・・・
 
という事で、学校もしばらく休んでいました
 
今なら考えられませんが、ずっと震災関連のニュースを見ていました
 
学校に行けるようになった日、たまたま学校では震災への募金を集めていました
 
当然、休んでいた自分は持ってきていませんでした
 
なんだか、とても悪い事をした気持ちになりました
 
それでもその時14歳、自分に出来る事も分からず、ただただ時間が過ぎていきました
 
自分の住んでいる「神戸」という町に愛着も持っています
 
あの時、何も出来なかったという思いもあり、何か神戸市の為にやりたいなと思っていますが
 
今も「神戸」の町に何かをする事は出来ていません
 
ただ、この日だけは、こうやってブログで震災の事についての記事を書く事は続けようと思っています
 
そして、復興する町・頑張って前を向いてる人がいる中で
 
今も尚、震災で負った傷が癒えていない人がいることを伝えていきます
 
最後に、年末に慰霊碑に初めて震災の被害者以外の方の名前が刻まれました
 
その記事を紹介して終わります
阪神大震災の犠牲者の名前を銘板に刻む慰霊碑「慰霊と復興のモニュメント」に今年、初めて震災犠牲者ではない人の名前が加えられる。慰霊碑と同じ神戸市中
央区の東遊園地の一角にともるガス灯「1・17希望の灯(あか)り」の清掃を10年間ほぼ毎日続け、11月にがんで亡くなった近くの飲食店経営、舘川(た
てかわ)勝美さん(71)。灯りを管理する運営委員会が「感謝の気持ちを形にしたい」と特別枠を設けた。
 舘川さんは震災で市内の自宅マンションと和食料理店が全壊。妻の千賀子さん(68)と近くの東遊園地に避難し、半年後に料理店を再開した。
 
震災から5年後の平成12年1月17日。「希望の灯り」の点灯式に出席した千賀子さんは、闇夜に浮かんだ灯火に胸を打たれた。以後、開店前に夫婦でガス灯のガラスケースなどをボランティアで掃除するように。震災の遺族らで作るNPOのメンバーなどとも交流が始まった。
ところが昨年11月、勝美さんにがんが見つかり、余命3カ月と宣告された。掃除は体力の続く限り続けたが、今年に入ってからは入退院を繰り返す日々。それでも、千賀子さんが看病を続けながら清掃を欠かさなかった姿を、満足そうに見つめていたという。

先月17日、勝美さんが息を引き取った当日も、千賀子さんは東遊園地に清掃に出かけた。夫を失った悲しみは大きかったが、「灯りの近くには彼がいるような
気がした」と話す。モニュメントには今月19日、勝美さんを含む25人の名前が追加され、総勢4905人の名前が刻まれる。千賀子さんは「銘板が掲げられ
れば、また掃除をしながら彼に会える」と話している。