今帰仁を後にしようとしたところで一服(笑)
それはこちら・・・

サトウキビジュースです
甘いです(笑)
そして、続いては

今帰仁村歴史文化センターです
屋根の上にはしっかり乗ってます

その傍らには鳥居の一部が・・・

戦前に沖縄各地のグスクが皇民化教育の一環として御嶽やグスクが神社と同一化され、 鳥居が建立された歴史があります。 この鳥居もこのような歴史を伝えてくれる貴重な文化財です。
さらにもう1つの方には

このコンクリートの柱は今帰仁城跡にあった鳥居の脚部分であります。 鳥居は、昭和5年に関西今泊岡山支部などの寄付と大勢の今泊区民が汗を流して建設されました。 高さ約7.3m、幅約10.6mの大きなものでした。
中には歴代の市長や村の歴史の資料があったり、生活に使っていた道具が展示してあったり・・・
ですが、事前に勉強していかなかった為に興味がもてず・・・
写真は撮れるのですが、どれを撮っていいのやら・・・
で、自分の知識があるところをパシャリ

「琉球の歴史」上大きな事件の一つに慶長14(1609)年の薩摩軍による 琉球侵攻がある。「琉球渡海日々記」と「喜安日記」にこの事件が記録されているが、 下の図は薩摩側の史料である「琉球渡海日々記」をもとにした薩摩軍の経路図である。 薩摩軍の琉球侵攻は、「今帰仁の歴史」にも大きな影響を及ぼした。

ペリーはアメリカ海軍の軍人で、1854年に日米和親条約と琉球修好条約を結んだ。 1853年5月に那覇に来航し、その後5回那覇に寄航し滞在する。 1853年10月に来航した三艘の蒸気船(黒船)の乗組員は、 那覇の街だけではなく山原の海岸線を計量しながら北上している。 今帰仁間切りの与那嶺村や仲尾次村にも立ち寄り、鶏を盗んだり、 崎山村の炬港にテントをはったりした。 一行はさらに運天港から羽地内海へと船を進めています。
今帰仁を後にして、次の観光地へ行きます