名参謀が天国へ旅立った。星野仙一・北京五輪日本代表監督(60)の腹心として知られ、今季まで阪神の総合特命コーチを務めていた島野育夫(しまの・いくお)氏が15日午後9時5分、胃がんのため兵庫県西宮市内の病院で死去した。63歳。葬儀・告別式の日程は未定。家族同然の関係だった星野監督は、この日の昼に病院を訪問。見舞いとともに北京五輪切符獲得を報告したが、直後に帰らぬ人となった。

 甲子園の一塁側ベンチ。星野監督の横には常にその姿があった。鬼軍曹として時には憎まれ役を買って出て、陰に日なたに闘将を支え続けた。3歳下の指揮官を敬意を込めて「監督」と呼び、星野監督からは愛情を込めて「島ちゃん」と呼ばれていた。そんな名参謀が逝った。この20年間は星野監督とともに歩み続けた野球人生だった。

 87年、中日でコーチを務めていた時に星野監督が誕生した。コンビを組み、88年には星野政権の初優勝に貢献した。家族ぐるみの付き合い。特に星野監督の扶沙子夫人からは絶大な信頼を得て、その当時に「主人を日本一にしてあげてください」との約束を交わした。義理堅いことで知られた島野コーチは、その約束を守ることにすべてをささげたといっていい。

 96年、星野監督が中日監督に復帰した際にも同じユニホームを着た。そんな名コンビが悲報に襲われたのは97年1月31日。扶沙子夫人が亡くなり、涙に暮れた島野コーチは葬儀で納骨にまで出席した。その後も墓参りを欠かさず、星野監督を男にする約束を守ろうと誓ってきた。そんな熱い思いが結実したのが03年。阪神の監督、ヘッドコーチとしてコンビを組み、18年ぶりにリーグ優勝。優勝の瞬間、島野コーチは扶沙子夫人の遺影を手にしていた。当時から不整脈や胃の不調を訴えていたが「嫁さんとの約束があるんや」。その言葉を口癖に、体にむち打って指揮官を支え続けた。

 星野監督の阪神退団後も球団に残り、05年の岡田政権では1軍総合コーチとしてリーグ優勝に貢献した。しかし、2軍監督だった昨年4月26日、胃の不調を訴え入院。そのまま年内いっぱいを療養に充てた。今季は総合特命コーチを務めたが、入退院を繰り返す壮絶な闘病生活で、体はやせ細り歩くのも大変な状態だった。それでも9月下旬には甲子園で選手にゲキを飛ばし、11月には神戸での日本代表の合同自主トレに足を運んだ。「おれも北京に行きたい」。そう話していたが今月に入って今年3度目の入院。帰らぬ人となった。

 89年10月、田淵幸一氏(本紙評論家)がダイエー(現ソフトバンク)監督に就任した際、星野監督に「島野さんを貸してくれ」と頼んだ。それに対する答えは「ワシを殺す気か」――。それほどの信頼を得ていた名参謀は天国に旅立った。天国では扶沙子夫人と、星野監督の話題で盛り上がっているだろうか。

 ◆島野 育夫(しまの・いくお)1944年(昭19)3月30日、宇都宮市生まれ。作新学院卒業後、明電舎を経て63年に中日入団。俊足巧打で強肩の外野手として南海時代の73年から3年連続ゴールデングラブ賞。76年に阪神移籍し80年に引退。通算成績は打率・242、24本塁打、211打点、251盗塁。81年に阪神コーチに就任。82年8月の大洋戦で審判に暴行をはたらき無期限出場停止処分(翌年解除)。86年中日復帰後は星野監督の参謀として88、99年の優勝、阪神では03年優勝に貢献した。
まだまだ若いのに残念です
星野監督の胴上げの為にすべてをささげた半生
体調の事は知っていたのですが、ショックです・・・