タカケリの思いのにまにま -3ページ目

タカケリの思いのにまにま

日記とか、自分の思ってる事とか…
我を確立せよ!
を目標に。

ブログ書く書く詐欺だった。

今年もいろいろ旅行に行ったり、イベントがあったり、
書くネタはあるし、
日記に残しておきたいなと思ってはいるんだけど。。。

今週の遅めの夏休みが終わって、
来週からは新しいプロジェクト(仕事の話)が始まると思われるので、
それがそんなに忙しくなければ←
ちょっと今年の出来事をまとめていきたいなと思います。
(必ず書くとは言っていない)
ネット回線の申し込みをしたので
ネットが繋がるようになればまたブログ書くかもしれない。
書かないかもしれない。

柿を食べました。実家から送られてきた柿。
先々週に送られてきてたんだけど、今日やっと、ようやっと食べました。
送られてきたうちの半分くらいはジュクジュクし過ぎていたので食べませんでした。
1つギリかなと思って皮をむいてみたんですけど、柿のほぼ半分に黒い斑点が浮き出ていたのでやめました。
たぶん大丈夫だと思うんだけど、熟してるだけだから、でもそれでお腹痛くなったら嫌だし、諦めておきました。
食べた柿は美味しかったです。かたすぎず、丁度良い感じになっていたと思います。もっと早く食べる気になっていたら捨てる柿が減っていたかと思うと、残念で仕方ないね。
今まで食べなかったのは、皮をむくのが面倒だと思っていたから。柿とかリンゴとか固い系は皮をむくのにチョイとだけ時間がかかりそうだと思ったんです。実際は熟していたので柔らかくてむきやすかったんですけど。


柿は実家の畑になっているやつだと思います。
アレ?あの気はもうないんだっけ?
1本だけ生えているのがあるんですけど、小っちゃい頃に登って実を採ったこともあったかなぁと、あるようなないような記憶をたどっています。


柿はともあれ、イチゴも育てていたので、夏にはたらふく食べられて、幸せな子供だったなぁと思います。
毎晩ボウル一杯のイチゴをね、ご飯のあとに、お腹が痛くなるまで食べてました。

高畑勲のかぐや姫?そっこーで見に行くよ!
だってあの高畑勲だよ?期待するでしょそりゃ。


今日は雨が降るよって天気予報がいうのでツーリングにも行けなかったし、予定も全くなかったので、海に行ってまたテトラポットの上でのんびりしようかなと思っていたのだけど、そういえばと思い出して演劇を見に行きました。
「わが町」
原作はソーントン・ワイルダーという人が75年ほど昔(1938年?)に書いている。
アメリカ?のある町を紹介するような内容で、語り部、紹介役の人が観客に対して語り掛け、他の役者たちが町の人々になりきって、町を紹介したり、村の日常を劇で表現したりする。(これは劇中劇といえるのだろうか。)
紹介している町はなんてことない田舎町で、劇の内容も日常を切り取ったものだった。
この演劇の目的は、まず、演劇の中でも語られていたけど、千年の先の未来に対し、この時代の人々はこういう暮らしをしていたんだよ、と伝えることだと思う。現に、千年とは言わずとも75年の未来である今日に対して、この劇が演じられることで伝わっている。
感想としては、今の田舎の暮らしとそんな変わらないんじゃないのかな。勿論文明の発達で生活の仕方は変わってきているだろうけど、田舎町での人々のかかわりは変わっていないんだなぁ。これが、もっと未来になると感じ方が変わってくるのかもしれないね。
この演劇にはもう一つ、目的があると思う。それは、演劇の最後で丘の上の墓地(お墓がずらーっと並んでいるようなのではなく、点々と散らばっているイメージね)で、死んだ人たちが静かにしゃべっているシーンがあったこと。また、新しく死んだ人が過去の思い出の時を見に行こうとするシーンがあったからそう思ったんだけど。今一つ、何を伝えたかったのかは分からなかった。
思ったのは、大切な人が死んだらどう感情を表したらいいのか分からない、もしくは、どういう反応をするか分からないなあ、ということでした。(自分勝手な人間だから死んじゃうのは仕方ないよねとか思いそう。)


この演劇を楽しめたか?そりゃ楽しめたよ。楽しそうに表現してるなと思った。
今回の演劇で一番良かったのは、コーラスの練習からの帰りに奥さん連中が別れるシーンかな。奥さんの1人がこう別れのあいさつに投げキッスをして、された側がキャッ!って、はにかむ様な可愛らしい表現をしたところ。なんていうか、くすぐられるものがあったよね。
それとジョージ役の人がうまかった。表現の1つ1つが、なんていうか、しっかり出来ていた。工夫されていた。とくに声の抑揚がうまかったんだ、そうだ。日常の声の抑揚、話し方を、決められた台詞で意識してやるのってすっごく難しいんだよ。それでいて観客に聞こえるように声を張らないといけないし。その点がジョージ役はうまくできてたんじゃないかなって思う。
考えるに、日常の話し方は基本終わりがちょっとしぼんでいくような低くなっていくような感じなのに対して、観客に聞こえるように声を張ろうとすると終わりまでしっかりハキハキしていたり終わりが高くなっていたりするんじゃないかな。
あー、話し始めの1音目も同じかもしれない。台詞をしゃべると1音目からしっかりとしゃべりだしそう。


とまあ、演劇観てると演じるということに対して目が行ってしまうんだよなぁ。
そうそう。今日は1時間前に当日券を買いに行ったんだけど、そのあともたもたしていたせいで、開演の時間に10分ほど遅れてしまって、すでに始まっているからと、2階の席から初めて観ることになったんです。普段は1階の席で正面から観る形なんだけど、2階からだと斜め上からなので観え方が変わるんだね。役者が全員観える、つまり、奥に居る役者でも前の役者とかぶって見えないということがなかった。それぞれがどこで何をしているかが良く見えた。


まずは話し始めの1音目を落として、2音目、3音目あたりに抑揚を持ってくると本物っぽく聞こえるんじゃないかなっていう提案。

夢の内容を文字にするときは文体が現在起こっているような書き方になる。
つまり「○○が××している。すると~」のように、小説のような文章だ。
夢を見ているときは自分が体験していると錯覚しているのだけど、文章を書いているときは傍観者の視点になるのだろう。
(もちろん夢のときから傍観者である場合もあるが。)
これに対し、日常の内容を文字にするときは「~した。」と過去形になる。
書いているときでも、傍観者にならず体験者として語りだすわけだ。
客観性、主観性の違いが文体に表れている。
(書いててここの「客観性、主観性」っていう言葉がしっくりこない。。。)


この書き方を逆にしたとき、面白いことが起きそうな気がする。



この2週間で朝ラン(早起きしてランニング)を3回した。
少ないね(笑)
それでも今まで全くしていなかったんだから、自分は満足している。
朝走ると気持ちいいし。
特に周りが良く見えることが。
前は夕方の暗くなる直前に走ってたので、道とか景色が見えてなかった。
それに車のライトが眩しくてイラっとしてた。
朝焼けが見えたり鳥が活発的に動いていたりする方が、走ってて気持ちに余裕が出てくる。
(近くの川にはシロサギが多く生息しているようで、朝は数羽でじゃれ合っている姿が良く見られる。)


とは言っても、3回しか走れていないのは、早起きしても寒くて嫌になってるからで、これは改善すべきなのかもしれない。
(かもしれないというのは、これくらいが丁度良いという考え方も勿論あるからだ。)


それと、これは昨日初めてやってみたことなのだが、Nike Training Clubというアプリをダウンロードして、30分間のトレーニングをやってみた。
まず運動の種類を選ぶことができて、ダイエットなのかマッチョになりたいのか、週何回やるつもりなのか、簡単なのかハードなのがいいか、といった感じで分類わけされている。
1つのセットは複数の動きを決められた時間ずつやるといったもので、例えばハイキック1分 → 横跳び1分 → 腹筋的な1分 →・・・それぞれは短いんだけど、全部やると汗かくような内容。
スタートすると次はこういう動きだとか、30秒たったよとかしゃべりよるし、スマフォに入ってる音楽を勝手にかけてくれるので、続けやすい感じ。
筋トレを1人で黙々とやるよりおもしろい(結局は1人で黙々してるのに)。
ただアパートの1室でジョギング2分とか言われて静かに行ったり来たりしている図ははたから見なくてもシュール。
下の階の人に迷惑かもしれない。


スポーツの秋 始めました
もうすぐ冬