高校卒業するまで寿司が食べられなかった

生魚が食べられなくて酢飯も食べられない最強の寿司嫌い

 

一般的に寿司ってちょっと贅沢なイメージあると思うけど

「昨日高級なお寿司食べに行ったんだー」とか言われても

全然うらやましくないし、食べたいーともならない

まあ食べられるようになった今でも、うらやましいとかは思わないけど

それ言いだすと話がそれちゃうんで

 

寿司食べられないなんて人生損してるよ

 

みたいな考え方って

気持ちはわかるけどそれは違うよねとなってしまう

寿司が嫌いな自分にとっては寿司が食べられることに魅力が全然ないのだから

 

極限状態に置かれて何か食べものは無いか!ってときに

「寿司です!寿司を発見しました!」ってなって

みんな寿司をむしゃむしゃと食べてる中

「あ、おれ寿司食えないんで」ってなったら人生損してるかもだけど

たぶんその状況なら食べると思うんよな

だから寿司が食べられなくても人生損してるとはならない

 

ただ、人生損してる論を説いてくる人の気持ちは

「こんなに美味しいものの良さがわからないなんてかわいそう」だなとか

「こんなに美味しいものなんだから自分だけじゃなくてみんな好きなはずだ」とかかな

たしかに何かの魅力に気付けることって素敵なことだと思う

もし身の回りにあるもの全てが大好きなものであふれていたら

毎日が楽しいだろうなとも思う

でもそうならない

絶対に受け付けないものだってあるし

痛いことされるのが好きな人もいる

でもほとんどの人は痛いこと嫌だとおもう

ヘビとかトカゲ、虫とかもそうだけど

かわいいって飼ってる人もいるけど

苦手な人の方が多いイメージある

 

寿司ってものが好きな人が多数派だから

寿司食べられないなんて人生損してるよって言葉がそこまで違和感ないんだろうけど

それを好む人の割合が少数派な食べものや趣味だったら

「何言ってんのよ」となるんじゃないかなと思う

最悪なケースだと人生損してるよのあとに

「だまされたと思って一回食べてみな」なんてこと言う人もいるけど

もう何回も食べてダメだったっつーのみたいな

 

もちろんそれをきっかけに魅力に気付けることもあると思うし

食わず嫌い的なものは少し損してるのかなとも思うけど

「人生楽しくない!今まで経験したこと全部ハマらなくて困ってます!

なにか面白いコンテンツひとつでもください!」みたいな状態でない限り

今まで無くて困らなかったものを取り入れないと損するとは思えない

 

めちゃくちゃ前置きが長くなったけどここからが本題で

ストレスを感じる時の理由に「自分だったらこうするのにな」って時がある

特に違和感なく生まれてくる感情なんだけど

これがまさに人生損してるなって思ってこれを書き始めた

 

思い通りになることの方が少ない事なんて頭ではわかってるのに

思い通りにならないと「なんで?」ってなる

何かを頼んだときの相手の対応だったり

考え方の部分の話なんだろうけど、がんばるってことの捉え方だったり

好きとか嫌いとか忙しいとか疲れたとか

○○だったらこうゆうふうにするんじゃないの?自分だったらこうするのに的な

 

そこにストレスを感じてるってことは直接的じゃないとしても

寿司食べれないなんて人生損してる理論をぶつけてくる人と同じなんじゃないかって

人それぞれ考え方捉え方は違うしそこが違ってくれば行動も違ってくるのは当然なことなのに

自分の中の正しさが正しすぎてそれ以外が間違ってるように見える時がある

 

ストレスなんて少ない方が絶対いいのに

余計なストレスを自分で増やしてる気がする

不思議なもので頭ではわかっているつもりでも思考や行動に移せない

相手の意見も尊重しつつ、譲れない時には意見を伝えて

それでもダメなら自分が折れるかその相手とは理解しあえないんだと諦める

でも仕方のない事

ストレスに感じたって感情を浪費してるだけ

もっと他のことに頭使ったり悩んだりした方がいいよねって

 

こうやって気持ちの整理をしてるけど

この1行を書いてる今も思ってることがある

 

 

 

自分だったら・・・

 

 

 

 

はい

 

よくわからないタイトルからスタート

わざとなんだけどもね

 

先にあるものと

前にあるもの

 

前後の言葉を気にしなければ

どちらも何かが主人公の前方にあるようなね

 

 

 

本当のことが言いたいけれど

本当は言いたくない

何が邪魔しているかわからないけど(わかってるけど)

おなかすいたから何か食べたい時には

「しばらく何も食べてないなー」と言ってみたりするような

知ってほしいのか知られたくないのか

 

 

 

 

「本当は〇〇なんでしょ?」とどちらかに決めたがる人がいる

 

例えば「はい」と「いいえ」の二択があったとして

はい・いいえ 二択の人

はい・どちらでもない・いいえ 三択の人

はい・はいよりだけどいいえもなー・どちらでもない・いいえよりだけどはいもなー・いいえ 五択の人

誰かにとっての二択が別の誰かにとっては三択だったり五択だったりすることってあると思う

 

 

 

 

 

 

 

書きたかったことと微妙にずれていってしまって熱もさめた

みんな何かのせいにして生きてるよなーって思った

 

今日書きたかったこととは関係ないけどね

 

あー今週もはじまってしまった。

とはいっても、カレンダーを見ると

一週間の始まりは日曜日からになってる。

 

今日は月曜日。

 

今週が始まって2日目

 

日曜日が休みの人は

仕事が始まる月曜日に一週間のスタートを感じるのだろう

 

一週間はすでに始まったけど

仕事に合わせて開始を感じていることによって生じる

一日のずれが、1年で52週間くらい繰り返すと

とんでもないずれになってしまうかも。

 

とかどうでもいい話題をかましたとこで

本題もどうでもいいのだけれども。

 

いつからか癖になってしまってると思うことがあって

 

何か意見を言うときに相手の反応を予想して発信することは

誰でもやってると思うんだけど

それをやってるとこんなこと言うとこんな返しが来るとか

すごく明確に見えてしまって

それが自分の望んでいない反応だったら

なにかひと手間ひとこと添えることで防ぐことができないかな?って

 

わかりやすいとこでいうと

「○○を否定しているわけじゃないんですけど」と最初につけて

他の意見も理解しているようにみせたり

「〇〇だと思わないでほしいんですけど」といって

自分の意見から発生するであろう安直な反発などを

防ごうとすることが自分にはよくある気がする

 

それって意味あるのかなと

 

この手法を初めて思いついたときとか

まだ使っている人がほとんどいないとき

最悪自分がめったにこの表現を使わないのであれば

成立するかもしれないけど

 

他人の文章とか読んでると

「ああこのひとは反対意見が来ることを恐れてるんだろうな」

「でも本当は否定してるし自分が正しいと思ってるよな」

とか思うことがよくある。

 

きっと自分が発する言葉をみたりきいたりしたひとも

上に書いたような感想を抱くことがあると思うし

自分もそうだけどそれに対して

「本当は○○なんでしょ?」みたいに核心を突くようなことはしない

 

そこに生まれる小さなストレスの積み重ねが

人間関係を円滑に進めなくさせる要因になったりするのかも

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

でもね

さっき「安直な反発」って書きかたしたけど

その意味わかるかな?

今まで書いてきたことは自分から相手に対して与えるストレスが

あったらいやだなとおもって書いたことだけど

先回りしてひとこと添えて相手の意見を封じておかないと

くだらない説明とか本題からそれた時間を無駄にかけたりしないといけない

こちらのストレスのほうが深刻なんだよ

 

まあいいんだけどね

ここにかくことで何かを整理できたり

発散できたりしてる気がする。

 

 

仕事中だけど。