私が、初めて公共の電波に声をのせたのは、じつはアマチンのラジオにおまかせ」でした。
高校2年生の体育大会の振替で休日となった日でした。
当時、スタジオ見学は、当日申込でOKでした。
「将来はアナウンサーになりたい」という私に、天野さんは、「じゃあ、ここに東海ラジオの屋上から写した生映像があるから、これで実況でもなんでもやってみな」と一言。かなり狼狽しながらしゃべった記憶があります。
つまり、すべての始まりといっても過言ではないと思います。

「天野鎮夫さん、あの青二才が無事にアナウンサーに成れました。ありがとうございました」

ゆっくりとお休みください。