
2015年の9月30日が過ぎた。上京して1年になる。
あまりにもあっという間で、これで大丈夫かとも思ったが、
振り返ればずいぶん沢山の事を成せていたし、始められていた。
大丈夫だ。
・・・・・・・
2014年9月29日、大阪最終日。荷物の出払ったカラっぽの我が家。
手荷物を枕に、硬い床で眠ったせいで体中が痛かった。
(公共料金の最終清算がなんとかで、朝までいる必要があった。)
朝9時になるとインターホンがなり、管理会社の立ち会いで5分程度の短い退居手続きが行われた。
鍵を手渡し、部屋を後にする。玄関を内から外へ。
音を立ててゆっくり閉まったオートロック扉に一つ礼をした。
ここはもう我が家ではない。
16年間の関西での生活の中で大阪に住んだのはわずか1年余りだったが、とても気に入っている家だった。
アコースティックギターと簡単な手荷物だけで街に出ると
住み慣れた土地なのにもう住所がないのだなと言う実感がジワリと身の内から染み出す。
自由と不安が同じくらいの張力で僕の心を引き合い、ちょうどその真ん中でかろうじて均衡が取れている様な、
緊張感を携えた、しかし静かな心持ちだった。
・・・・・・・
上京への転機は2度あった。
1度目は2013年の12月23日、クリスマス前夜。今振り返ってもとてもつらい思いがする。
当時、僕は大阪でデザイン会社に勤めていた。日々激務に追われ、睡眠時間や休日も返上して働いていた。
巣立って行く先輩方や、もの凄いペースでドロップアウトして行く後進たち。
激しく人が入れ変わる急流の中、気がつけば部署の最上席として責任を取る身となっており、頭の中は仕事一色に変わりつつあった。
その日、祝日で自宅にいた僕は、見るともなくテレビで全日本フィギュアを見ていた。
ソチ五輪の最終選考会を兼ねたこの大会。新鋭の羽生選手・町田選手が素晴らしい演技を見せる中、高橋選手は右すねのケガが完治していない状態での演技を強いられ、5位と言う記録に終わる。
テレビはスポーツ番組の時間へ。年末と言う事で最近の振り返りが行われていた。
サッカー、J1最終節。中村俊輔率いる横浜マリノスは一位でその日を迎えたにも関わらず、最終節を勝ちきれず、2位に勝ち点差での逆転を許し、寸前の所で苦杯を喫する。
あまり大きく感情を表に出さないイメージだった中村俊輔選手がグラウンドに両膝をつき、額を擦り付けて慟哭する映像が繰り返し流された。
画面は切り替わり、クラブワールドカップの特集へ。
ブラジルのクラブチーム代表、アトレティコ・ミネイロ vs モロッコのクラブチーム代表、ラジャ・カサブランカの試合。
アトレティコ・ミネイロには、ナショナル代表の座から遠のいてしまったが、ブラジルサッカーの一時代を築いたロナウジーニョ選手の姿があった。
試合を前に「ロナウジーニョは終わってなんかいない」と自らを鼓舞し、それに値する活躍を彼自身も見せるのだが、チームは3対1で敗戦を喫する。
試合終了を告げるホイッスルが鳴ると、勝利したモロッコの選手が一斉にロナウジーニョの元に駆け寄り、抱きつき、握手を求め、声をかけた。
「あなたは私たちの伝説であり、スーパースターです。ありがとうございました。」
高橋選手は少し年下だが、中村俊輔選手は1つ年上。(今調べると誕生日も1日違いだった)
ロナウジーニョ選手とは全くの同い年。彼らは僕の世代のスーパースターだ。
ずっとそのままだとはもちろん思っていなかった。でも、本当に気付かぬ間にその時は来ていた。
僕らのスターの時代が閉じようとしている。気がつけば少しずつ、時代は次の扉を開けようとしている。
未来へ行こうと流れに抗う意思が、閉じて行く扉に押し戻されて、過去にされ、蓋をされていく。
僕が呼吸も忘れて、思考を止めて、ただただ日々の仕事に時間と命を捧げる間に、もうその時はそこに来ていた。
世界的なスーパースターなど、本来シンパシーを感じる様な相手ではない。
そんな事は百も承知なのだが、心のどこかで敏感になってしまっていたセンサーに引っ掛かってしまったのだと思う。
その日は一睡も出来なかった。
「自分はこんな事がしたかったのだろうか?」「もう自分には何も残す事は出来ない?いや、何も残せなかった?」
「自分は知らない内にもうプレイヤーではなくなっているんじゃないか?もう実は何もかも終わってしまったんじゃないか?」
そう言う絶望的な気持ちと恐怖の渦巻きが止めどなく押し寄せ、一晩中ベッドの中で文字通りにガタガタと震えていた。
今思えば、心がずいぶんと疲れていたのだと思う。
年が明けて、僕は退職を決めた。
一番の原因は半年余り前から断続的に続く目眩と耳鳴りだった。音が良く聴こえない。
先はなにも決めていなかったが、とにかくここが死地でない事は明確に分かった。
先の事はこれから考えれば良い。そして心に従えば良い。
・・・・・・・
二度目の転機は2014年5月。
退職が6月に決まり、まさしく人生の選択期にあった僕に、アルカラ・タイスケが電話をくれた。
電話はアルカラ主催のネコフェスに絡んだ、フライングポストマンプレス誌の対談企画へのお招きで、急な誘いではあったが何となく行くべきだと感じた僕は数年ぶりに東京に足を運ぶ機会を得る事になった。
久々に顔を合わす同期のアルカラ、大石昌良君を初めとした神戸チーム上京組、
初めて顔を合わせる業界の最前線で仕事をされている方々。そこに流れる空気感。
全てがポジティブで、別の選択を生きてきた僕との間で生じるはずの違和感を、微塵も感じさせない寛容さがあった。
「東京」
その選択肢に火が灯った瞬間はこの日だった様に思う。
35歳になろうと言う寸前の所で、自分の中にその選択肢を見据えるだけの熱量が残っていた事が、とても嬉しかった事を覚えている。
自分はまだ、次を見たがっている。明日を生きたがっている。こんなにもハッキリとだ。
何年も前から行きたいと言っていたが、現実に踏み越えなかった気持ちのラインをこの日、スッと越えた。
そこから、上京に至るまでの準備が始まった。
8月になると作品を作り、アルカラと九州を回り、大石昌良君と香川で歌った。
上京直前の9月、最後にchaqqの大介と大阪で歌った頃、気がつけば耳鳴りが止んでいた。
・・・・・・・
上京初日。何もない部屋に荷物をおろす。到着の電話を両親にかけるその声が、空っぽの部屋にはワンワンとよく響いた。
鍵を持っているだけで、まだ誰の物でもなく、心が落ち着くはずもない部屋で僕の東京での生活は始まった。
あれから1年して、同じ部屋で今、久しぶりに当時の事を思い出している。
状況はずいぶん変わった。仲間や気にかけてくれる方も増えた。
僕の音楽に価値を見いだしてくれる方も少しずつ増え、仕事になり始めている。
なんとありがたい事だろうと心から思う。
良い年齢になっているのだし、譲り得る物はほとんど譲った様に思う。
そんな中で、渡してはいけない物にまで触れられた事もあった。
その瞬間に味わった恐怖を、まだ身体は、心は忘れていない。
ここから先にも大きな挫折は何度もあるだろうし、願い叶って大きな光に照らされる日も来るかも知れない。
だが、僕は忘れない。
もう絶望には帰らない。希望に生きるために来た。
誰かの目の前で果てるより、生きてまた会うために別れて来た。
僕は必ずなりたい者になる。
時折、読み返すつもりで書いたので、これを読んでいる少し先の自分へ。
頑張れ。頑張れ。
どれだけつらく感じる事があろうが、今ほど幸せな時はないのだから。
悲観も慢心も決してするな。常に前向きであり、探究心を持ち続け、努力を惜しむな。
謙虚であり、感謝の心を大事に常に傍に携えよ。
心から迷ったならば進むと言う選択をとれ。
成りたい者に必ず必ず必ずなれ。