今後はこちらのリンク先にて更新してまいります。
どうぞよろしくお願いいたします。
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あけましておめでとうございます。
2017年がやってまいりました。本年もどうぞよろしくお願い致します。
元旦より実家に帰っていました。
盛りだくさん。会いたい人に会え、話したい方とお話でき、
歌いたい歌を歌え、伝えるべき事を伝えられた。
あと、食べるべき物も食べた。
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なんかね、今回は自分の心象風景と言うか・・多分これは音楽のマテリアルになってるんだけど、
そう言う物の輪郭をもっかいギュッとしてくれる様な経験をたくさん出来ました。
地元のシンボル的な山に上ったりね。青の山と言います。
最後に山頂まで登ったの30年くらい前じゃないかな・・家族で良く登ったんだよ。(車でだけど)
山頂から見下ろすと讃岐平野ってホントに真っ平ら。
ホント行けて良かった。幼少期に意味も分からず見てたモニュメントの意味を知ったり、何でも無い家族の風景の追憶があったり。
なくなってた物もあったな。好きだった遊具とか。あんな危ねー事よくやるなと言う遊具だったんですが、やっぱりなくなってましたね。昭和、ゆるかったんだよな。
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滞在最終日は・・今日、さっきの事だね。近所を散歩してきました。
なんでも無いとこです。友だちの住む団地まで歩いた道だったり、ピアノ教室までの道だったり。1時間足らずの思い出巡り。
祖父母の家の裏を抜けて、遊び場にしていた神社。入り口と反対方向に抜けると大きな川の土手で、そこは愛犬と毎日散歩して回ったコースです。歩いてると目の前をまだリードをグイグイ引っ張るあの子がいる様で涙が出ました。
コンクリの階段を下って河川敷へ。川沿いまで降りるといろんな音がするんです。
枯れたすすきがこすれ合ってカサカサと立てる音。その遠くの音と近くの音の重なり。
水がサラサラと流れる音に混じって、各々で規則的に鳴く水鳥の声。
遠くで音を立てる、水門を抜けて勢いよく落ちる水の固まり。
なんか十分でしたね。
どれもホントに、別にきっと感動的じゃないんです。
雄大に凪に落ちる燃える陽の色の様に、万人の心を打つ物では、どう贔屓目に見てもあり得ない。
でも、その全てが僕を肯定する物でした。
帰り道。うちのお隣、大きなお屋敷だった場所は駐車場になってしまったのですが、その脇に1m程度の幅にだけ、コンクリの目の荒い場所が残っていました。ここだけはずっと昔からこうだった。屋敷の裏の、抜け道の様な通路だった。
その脇に流れる小さな沢から、爪の真っ赤な沢ガニが時々雄々しく現れるのがあの日の僕は確かに好きだった。
変わったけど、無くならずに積もっています。全てが大事だなと思います。
魂とかそう言うのがあるなら、僕のは最後に必ずここに帰ってくる。
何か良かったなと思うんです。
写真よりも、多分僕は今打っているこの散文に故郷の様を見ると思う。
それはあの日と今日のがない交ぜになった物だけど、僕にとってはそれで良いのだなと。
とても腑に落ちる形で胸に収まってくれました。
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東京に帰る新幹線の中でこれを打ってます。
なんかね、すげー大丈夫。絶対もっともっと頑張れるし、みんなが夢を見るお手伝いが出来ると思う。心が帰る場所があると言うのは強いのだ。この滞在を経てマジで思ったよ。
うん。そんな感じの、素晴らしい新年を迎えられたよと言う話でした。
今年ね、すげー頑張るよ。それは多分、"これまで過ごしたどの1年よりも"と言う意味を込めてです。
この「頑張るよ」が、大きくても小さくても、これを読んでくれてるあなたの幸せの歯車になると信じて、ね。
よっし。ではでは、本年もどうぞよろしくお願いします!
師走も中旬となった。
これまでの総決算とばかりに、人と会う日が続く。とてもありがたい事だ。
特にこの3日間は、共通して「言葉の達人」との邂逅となり、大変に考えさせられる時間になった。
改めて問われた、「言葉を残すとはどう言う事か?」
こうやってブログを書く事も、限られた文字数でつぶやいてみる事も、「詞」と言う形で花開かせる事も。
言葉には力がある。
殊更ネガティブな物の力は強く、他人を巻き込んで猛スピードで連鎖する。
「解消」のつもりが、伝染・連鎖。
発信元では束の間にマイナスエネルギーの減衰を見たとしても、世の中に出回る総量としては、むしろ爆発的に増えてしまう。
そう言う事はあるのだ。
酒の席、気の知れた者同士が言葉で交わす感情のロンダリングは有意義だ。
同調が傷を癒したり、客観化が問題の本質を露呈させる事もある。
だが、例えば一度に1000人以上の目に触れる形で同じ感情を言葉に残すと言うのは・・。
ごく個人的なやりとりならともかく、ある程度パブリックな規模では自分でも思いもよらぬ結果を招く事もあるだろう。
不特定多数の誰かを害する事は当然、誰にとっても本意でない。
・・・・ただ、その事を恐れ、「咀嚼」と「選別」を繰り返すあまり、
自分の言葉が無味無臭、毒にも薬にもならんつまらん物に成り果てているのではないか?
言葉の達人たちとのやり取りの中で、そう思わされる瞬間が幾度とあった。
言葉、刈られては下げ、刈られては下げ。下流の石ころ、似た様な形に削られた有象無象。
誰かが拾い上げても、果たしてそれが僕の物だと気付いてくれるものか。
個の性はまがいなりにも芸術や創作に関わる者にとっての生命線。
ここを防衛線として、生きる死ぬの話を僕らはしているのだ。
その危うい線を自覚なしに踏んでいたのかと思うと空恐ろしい。
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受け手にも色んな心がある事を、僕たちは知っている。
艶やかに潤っていて、全てを柔らかく受け止める心もあれば、乾いて傷がつきやすくなった心もある。
あかぎれみたいに、ほんの少しの力で弾けてしまう。そんな張り詰めた物だって中にはあるのだ。
意図せずに、誰かの心をパチンと割く、その最後の一押しを自分がしてしまう事だってあるかも知れない。
何かを発信すると言うのはそう言う事だ。
「 だから、言葉にしないでおこう 」
この、大多数にとってのベターアンサーが、作り手たる僕らを殺すワーストチョイスになり得る。
言葉にする事を諦めると言うのは、言うならば漁師が転覆を恐れて船を捨てる様な行為であって、本末転倒、緩慢なる自殺だ。
言葉の無垢な力が時に見せる残酷さと、それを受け止める心の可塑性を『知っているからこそ選べる言葉』が有る。
その見えないくらい小さな針の穴を射抜く、ほとんど魔法の様な言葉は、必ず、必ずある。
誰もが諦めた後にもそれを探し続け、そして見つけ出すのが、まがいなりにも言葉で生きる者の責任ではなかろうか。
「プロ」とはそう言うものだろう。
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思えば、言葉に苦しみ、言葉に喜んだ1年でもあった。
年の瀬にこう言うテーマを露骨に手渡され(少なくともそれとして受信し)た事にはそれなりに意味が有るのだろう。
「言葉と共に生きる者だと自覚せよ」と言う事だと、勝手ながらありがたく啓示と頂戴して大事に携えていこうと思う。
この数日間、時間と言葉とお酒を共にして頂いた皆さん、刺激的な時間をありがとうございました。
良い形で再会出来ます様、願っております。
良い年の瀬。きっと良く過ごせたのだろう。