『身体がノーと言うとき』
「自分には現実に対処するだけの力がない」という思い込み
子ども時代の不安はこの無意識の思い込みを抱えている。
「自分には現実に対処するだけの力がない」のは子どもなら当り前のこと。
でも、大人になっても、この思い込みが無意識の中に落とし込まれただけで、身体は自然と緊張モードが『続いている』ことになっている。
この思い込みがあると、人との関わりに頼らず、自律的なコントロールが苦手である。
結局、自律的なコントロールが出来ないから、人との力関係に左右されることや、罪の意識や愛情への飢えに動かされたり、成功への渇望や上司やパートナーに対する脅えや退屈への恐怖に突き動かされていたりする。
また、逆に、何かに突き動かされていたりする限り、自律が出来ない。
つまり、故に人に「ノー」が言えない。そればかりか、自分が
自分の衝動に対してすらも「ノー」が言えない。
「ノー」が言えないのは、人が怖いからではなくて、必死で頑張っていないと自分が空っぽのような気がして怖いから。人から求められる自分でないと許されないし、求められていることは全部やるのが当り前で、自分の都合は後回し、無理してでも相手の要求を呑んでしまう。
せっせと外側のニーズで自分の中の心の穴を埋めようとしていた。
穴が埋まりそうになると、いつも、幻想のかすみをつかんでいたことに気がつかされる。もちろん、穴は埋まらない。で、穴はさらに崩れて大きくなる。
子どもの頃、何とかして苦痛や葛藤を乗り越えようとしたことが、大人になってからの症状や病気につながる。気をつけよう。
世話焼きする癖(防衛)
両親は二人とも短気で余裕がなくて不幸そう。
ならば、その親を幸せに出来るような役に立ついい子になろう!
親を守ってあげたい。
そう思ったに違いない。
本当は自分が親に対して怒っていたし、寂しさを受け止めてもらいたかったはずなのに。
「世話焼きする癖になったのは、自分が何も感じないようにするためだった。」
親が恋人に入れ替わり、夫になり、子どもに入れ替わるだけで、ずっと誰かの役に立つ自分じゃないと存在していられなかった。
尽くしても、いつも、「その大切な人は、私のことをちっとも理解してくれない、支えてくれない、愛してくれないよう。」それが、辛い辛い辛い。だから、辛い気持ちを感じないように、また世話を焼く誰かを探し出す!?
子ども時代に親に十分話しを聴いてもらえなかった
心を麻痺させて閉ざして、問題を感じないようにするために解離する。
お母さんは大変そうだった。
お母さんは父から自立して存在できない人だった。
お母さんのコミュニケーションは喧嘩だったから幸せになれなかった。
そんなお母さんだったから、無意識にお母さんの情緒的な欲求を満たそうとし、
自分の欲求をないがしろにするようになる。
自分の痛みや悲しみは後回し。。。
今こそ、当時の小さな子どもの私の痛みや悲しみをしっかり感じてみよう。
ズレ、すれ違い
私の無意識は「面倒見なければならない」と思い込んでいる。
でも、本当に私が面倒を見なければならないのは 私自身だ。
私の無意識は「押しつけられる(被害者)」か「嫌われる(見捨てられる)」と思い込んでいる。
でも、本当は対等だし、愛されている。
今まで、お節介だったり、被害者だったり、ひとりぼっちで、空回りの損な人生を送っていたのだな~~
私を大切にしてくれる人を悲しませてきたと思う。
今は若いカウンセラーさんを悲しませてきたと思う。
ごめんなさいね。m(_ _)m
私は人を助ける(サポート)する仕事に自分は手に負えないと思う。素敵だと思って憧れてきたけれど、本当に人をサポートするのは大変なお仕事だと自分を通して実感している。本当に頭が下がりっぱなしだ。並大抵の人間にはなれないから、カウンセラーさんへの私の憧れと尊敬はまだまだ続く。
やっと、世の中から許されてきた。
そして、カウンセラーさんのところへ通うことを繰返すことで、初めて、私は自分は世の中から許されているような気がする体験をしている。
「ちゃんと、世の中から許されている自分になろう(なりたい)」っと。心が喜び軽くなる。
私は、今まで、出会った人を急に見捨てるような人生を送ってきた。
恋人と別れるときも、子どもと生別するときも、よい人と別れるときも
いつも、急激で、極端で、卑下して、突き放して、転落して、バッドエンドだった。
謝りきれないけれどの、悪かったことも、よかったことも、事実は変えられない。
これからは、未完了の気持ちの整理をしていきたい。
他にも、愛ある人間関係や自然との調和など まだまだ、変化変容出来ることが待っていると思う。
感謝