「 ひとり子をも惜しまなかったので 」
創世記 第22章1~14節
加 藤 高 穂
心の支え
今日という時を生き生きと活動するためには、何が必要とするのだろうか。私どもは、たとい生物的或いは物質的な条件が満たされても、存在の意味を見失うや、たちまち心萎えてしまう。反対に、いかなる窮境に立たされても、この世において、生き甲斐を見出している人は、容易に倒れてしまうことはない。
第二次世界大戦中、ソ連軍の捕虜となり、シベリアで抑留生活を送られた人がいた。零下数十度の極寒の地で、捕虜となった数多の日本人は、石炭の露天掘りやジャガイモ作りなどの強制労働に駆り立てられた。日々の給食は粗末で、ほんの僅かなものだった。そのため、たえず空き腹を抱え、栄養失調状態に陥っていた。そうした状況の下、目の前の食べ物に対して自制を保つというのは容易でない。
腐って捨てられた馬鈴薯だと分かっていても、つい手を出して、口に運んでしまう者も少なくなかった。すると、ひどい下痢症状を起こし、たちまち体力を消耗。衰弱の果て遠い異郷の空の下で、息を引き取っていったという。
そうした状況の中にあって、何が心の支えとなったのかとお聞きすると、祖国に残してきた愛する妻であり子供だったと言われた。
いつの日か、必ず生きて日本に帰るのだ。ここでは決して死ねないという思いが、辛い日々を耐え忍ぶ力を与えてくれたのである。その勇気と希望の源泉こそ、まさに妻や子供に対する愛だったのである。
とまれ、人はこうした愛と情熱の対象がある限り、決して打ちひしがれることはない。それを思うとき、アブラハムを襲った試練の深刻さは、察するにあまりある。
愛息イサクを捧げよ
「これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた、『アブラハムよ』。彼は言った、『ここにおります』。神は言われた、『あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい』」(創世記22:1~2)。
世継ぎの子供がないまま老齢となったアブラハム夫妻が、神の奇跡によって、約束の子イサクを授かった。いまやアブラハムの希望と愛は、全てイサクに注がれ、愛息イサクを中心に、明るい笑いと喜びの絶えない、平和で幸せな家庭生活が営まれていたのである。
その矢先のことだった。「アブラハムよ。あなたの愛する独り子イサクを燔祭として捧げなさい」という神の言葉が臨んだのだ。
燔祭というのは、旧約聖書時代における礼拝儀式の代表的なもので、動物を犠牲として祭壇で焼き、神に捧げた。その香りが天に上っていくことによって、礼拝者の魂も神の御許に上っていくことを示し、またそれが焼き尽くされることにより、神への全き献身と服従を表現するものであった。
ところが、牛や羊などの動物ではない。年老いて生まれた一粒種・愛してやまない我が子を殺せというのである。それも父親自ら息子の喉を掻き切り、焼いて捧げよという命令だった。人道も何もない。神は、まったく人間的な所業を求め給うたのである。
母性剥奪症候群
昨今、「母性剥奪症候群」と呼ばれる社会病理現象が広まりつつあるという。米国では、年間百万件に及ぶ児童虐待が報告され、日本でもそうした傾向が確実に増大していると、新聞が報じていた。
社会面の片隅に、言うことを聞かない子供を折檻死させたとか、泣く子がうるさいと床に投げ殺したとかいった記事が出る。それは端的な例と言えよう。
こうした行為の底流には、子は授かりものという従来の考え方が通用しなくなり、子供はつくるものといった意識が支配的となってきたことに遠因があると、指摘されていた。
つまり、親の意思や好みのままに、子供を勝手に取り扱っても良いのだという奇妙な錯覚を、私どもが抱くようになってきているというのだ。
だが、自分の愛する子供を殺すというのは、狂気の沙汰であり、通常の神経では考えられぬことである。それだのに、アブラハムに臨んだ神は、父親である彼に、自分の手で子供を殺して捧げよと、命じられたのである。
測り知れぬ神の御心
「捧げよ」と言われた愛息イサクは、かつて神ご自身が、その子によって地上のすべての民は祝福を受けるであろうと約束されていたのだ。神は考えを変えられたのだろうか。神の約束は反古にされ、無効となったのか。最初から空手形でしかなかったのか。アブラハムの心中に生じた苦衷と懊悩は、如何ばかりだったろう。
愛するイサクを失うや、たちまちアブラハムの家庭の幸福は消滅する。そればかりでない。イスラエル民族の祝福も失せてしまう。さらには、地上すべての民の救いと平安が潰え去ってしまうのだ。
神は何を考えておられるのか。測り得ないのは、神の御心である。生ける神の試練に直面すると、私どもの見せかけの信仰など、砂の城のように脆くも崩れ落ちてしまう。そして、何の手がかりもない、暗黒の虚空に投げ出されたままの己が姿を知るだけとなる。
だが、聖書は、アブラハムの心に渦巻く葛藤には何の注意も払わない。淡々と彼の行動を追っていくだけである。
孤独の道行き
「アブラハムは朝はやく起きて、驢馬に鞍を置き、二人の若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭の薪を割り、立って神が示された所に出かけた。三日目に、アブラハムは目を上げて、遥かにその場所を見た。そこでアブラハムは若者たちに言った、『あなた方は、驢馬と一緒にここにいなさい。私と童は向こうへ行って礼拝し、その後、あなた方の所に帰って来ます』。アブラハムは燔祭の薪を取って、その子イサクに負わせ、手に火と刃物とを執って、ふたり一緒に行った」(創世記22:3~6)。
何ゆえにと問いを投げても、神は黙したまま、何一つ答え給わない。その深い沈黙の中を、一行は押し黙ったまま歩み続け、三日目にモリヤの地に着いた。
山の麓からは、もはや誰ひとり同行は許されない。アブラハムと息子イサクだけが、山路をたどり登っていく。神の命に従っての厳しく孤独な道を押し黙ったまま、一足また一足と歩み続けて行くだけだった。
アブラハムにとって、自分の命よりも大切なイサクである。これを失うと同時に、希望はなくなり、生きる意味も失せてしまう。イサクを失うのは、神を失うに等しかった。その虚ろと闇を、彼は歩み続けていたのである。
燔祭の小羊はどこに
「やがてイサクは父アブラハムに言った、『父よ』。彼は答えた、『子よ、私はここにいます』。イサクは言った、『火と薪とはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか』。アブラハムは言った、『子よ、神自ら燔祭の小羊を備えて下さるであろう』。こうして二人は一緒に行った」(創世記22:7~8)。
「父よ!」と呼びかけられた時のアブラハムの心は、如何ばかりだったか。胸張り裂け、断崖絶壁の先端にあって足のすくむような思いだったろう。「神自ら備えて下さるであろう」。彼にとって、それは精一杯の返事であった。そして、二人は無言のまま、歩を進めていったのである。
子を殺そうとした時
「彼らが神の示された場所に来たとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、その子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、主の使が天から彼を呼んで言った、『アブラハムよ、アブラハムよ』。彼は答えた、『はい、ここにおります』。み使が言った、『童を手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたの独り子をさえ、私のために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることを私は今知った』」(創世記22・9~12)。
神はアブラハムの信仰理解がどうかといったことは、全く問題にされない。ただ、神の御旨に叶った行動をとる用意があるか。神の言葉に従うかどうかを、神は見給う。そして、アブラハムが全き従順を示したとき、神はイサクを生きて渡し給うたのである。
このイサク奉献の物語が、父なる神による御子イエスの犠牲を予示していることには触れない。
ただ、私どもの人生においても、理不尽な窮境に陥り、神の沈黙に直面。絶望的な苦しみに、のた打ち回ることが起きる。だが、苦しみの只中にある時は気づかぬが、後日、その苦しみ神の祝福の注ぎ口となり、救いに与かるべく、測り知れぬ神の備えだったことを、勿体なく覚えしめられる日が来るのだ。
〔1988年3月20日発行の『アサ便り』(再刊)第71号「ひとり子をも惜しまなかったので」一部改変〕