takabus2024のブログ

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たかバスの備忘録

Amebaでブログを始めよう!
わたしも勝手に他人を心配して、感情の起伏を激しくしてきたわ。
これがどれだけ無駄だったか、最近よくわかった。
いい人になりたかっただけなんだもの。
この記事に背中を押された。
これからは小乗仏教方式に変更だ~ほっこり

先日、岡田将生と高畑充希が結婚。

というニュースで「1122(いいふうふ)」というドラマがあることを知った。

これはふたりが夫婦役を演じたものらしい。

ちょっと見てみようかな~と思い立って、アマプラで先週末くらいに視聴開始。

いい夫婦というくらいなので、ふたりのほのぼのした生活の場面を切り取ったものかと思いきや、予想は完全に外れた。

”うわ…なかなかに究極やな驚き

という展開。

”えー!!どうするん!?”みたいな心境で一気に見終えてしまった。

 

 

話は、仲のいい夫婦なのに性欲だけは互いで満たすことができず、外に癒しを求めていき、外部の人間を巻き込んだことで、ふたりの関係が微妙になっていく感じ。

見てるこっちは、

仲良しって、何?

という疑問がわいてくる。

空気を読みすぎて、言いたいこともいわず、ただ凪のような日々を送ることなのか?

全てをここには書かないが、いろんな思いが浮かんでくる。

おとやんが外に作った恋人も、不倫だった。

発達障害を抱える幼い息子をワンオペで世話するのだが、旦那の家事、育児への無関心がしんどすぎて(そして怒りもあったはず)彼女もまた外に癒しを求めた。

こうやって書いてると、ドロドロした感じしかしないが、意外と淡泊な感じで描かれているし、救いは破壊に向かう愛憎劇ではなく、2組の夫婦がそれぞれの抱える問題に向き合って、息が詰まらない夫婦関係に再生しようという過程が描かれていること。

このドラマには野次馬的な目線ではなく、問題に寄り添う姿勢がある。

それがよかった。

 

 

で、いちこちゃん。

私が書きたいのはいちこちゃんのことなのだ。

彼女は父親がDVの家庭で育った。

その父はすでに他界し、実家には母親が一人で住んでいた。

いちこちゃんは、この母親にあまりいい具合に育ててもらえなかった。

小さいとき、家の中で怒り狂う父親はさぞ怖かったと思う。

どうして、自分はこんな家に生まれたんだろう?と思ったはずだ。

自分の部屋にこもって嵐が通りすぎるまで、じっとしていよう。

そんな感じだったんじゃないだろうか?

なのに、母親には、

おとうさんから私を助けてくれなかった。お前は冷たい子だ。

みたいなことを言われる。

小さい子相手に何を言ってんだ?って感じ。

だから、いちこちゃんは母親が嫌いだし、実家もすきじゃない。

わたしはいちこちゃんに自分の幼少期を重ねてしまう。

 

 

ちなみに、おとやんはとても温厚そうな家庭で育って、母親や姉とも仲がいい。(おとやんの父も他界している)

それはいちこちゃんが幼いときに味わうことのできなかったもの。

だから、おとやん家族の中にいちこちゃんが加わると、時々彼女は微妙な居心地になる。はみだし者のような。

おとやんはいちこちゃんに足りないものを埋めてくれる存在なのだ。

たとえ優柔不断であっても、いちこちゃんにとっておとやんは必要だった。

でも、いちこちゃんはそのことを素直に認めることができなくて、紆余曲折した。

不妊がつらすぎて離婚までしてしまったが、ふたりが長年くらしてきた家を売りに出そうとして、ようやくそこは決して手放せない唯一の場所だと気づく。

おとやんと過ごした時間はいちこちゃんに与えられなかった優しい家族の記憶を埋めるものだった。

いちこちゃんは遅れてしまったけど、ようやく人生のホームグラウンドに落ち着いたんだわ。

って思ったら、じーんときてしまった。

 

 

この話はいろんなテーマがいっぱい含まれていて、見る人にとってはひっかかる部分がさまざまだと思う。

が、私にとっては、いちこちゃんが紆余曲折の末、やっと心から根を張れる場所をみつけた。

…と思えるような終わり方をしたのが一番嬉しかった。

 

いいふうふって、まずは自分の心を閉ざさず、ふたりがちゃんと向き合って生きれ。

ってことだったのだろうか?

 

 

ちなみに、今日は我が家の結婚記念日。

うちもたいがいズレた夫婦だと思うが、帰る実家もなくなって久しい私にとって、ここは唯一の帰る場所。

そして、うちの相方もまた、わたしに足らない部分を補ってくれる存在なのであった。

いつもありがとう。

そして、これからもよろしくなパー

 

この夏は地味に大変だった。

私は右利きの人間で、これまでの50数年間右手を頼りに生きてきた。

だから、右手の疲労は左手のそれよりも何割増かになっていると思う。

その頼みの綱である右手の親指が腱鞘炎になってしまったのだ。

なかなかの激痛で第一関節の曲げ伸ばしをするとバネのような動きをする。

朝起きたときには指が曲がったままになっていて、左手を使ってもとに戻さないといけない。

洗濯ばさみを使うのすら激痛、ペンなんて持てない、箸も痛い、ハサミも使えない、包丁は気合で使ってご飯だけは作る。

みたいな日々が1か月以上続いた。

整形外科にいって、親指の付け根に注射を2度打ってもらい、今月のはじめくらいからようやく痛みが消えて、ペンが持てるようになった。

約3か月。私には長かった…。

その永遠に続くかも驚きと思われた期間にひらめいたのは、

左手の練習もしたほうがいいんじゃない?

ということだった。

この時、母のことが頭をよぎっていた。

脳出血で右半身がマヒした彼女が慣れない左手でスプーンを握って、病院食を食べる姿が。

利き手が使えないというのはこんなにもヤバいのか。

あの時の自分は全然、母に親身ではなかったな。

いまなら、こんなにわかるのに…と、猛省した。

それで、左手用のエジソンの箸やハサミやらを買ってきて、右手を休ませるために(腱鞘炎は手を休ませるように。と最初に通った医者に言われたが、あまりにも治らなくて、セカンドオピニオンで駆け込んだ医者に「利き手の親指と人差し指を休ませるなんて実際には無理です」言われた凝視)使ったりもした。

日記には書きたいことあるのに、ペンが痛くて持てず、まったく書けないのも悲しかった。

この先、ペンで字が書けないとか寂しすぎる。こうなったら左手で文字を書く練習もしよう!

そうだこれは天啓だ!母ちゃんの二の舞になるなってことだ。

と勝手に思い込み、朝日デジタルに入って、天声人語を左手でノートに書いたりもした。

やりはじめたら、左手で字を書くって、こんなに時間がかかるんだ驚き

と思いながらも、やる気のある時には写経(?)をした。

書いていて思ったのは、

やっぱし天声人語ってええよな~

短い記事だけど刺さる。

ってことだった。

ということで、前置きがめっちゃ長くなって、果たして本題に入れるのか?って感じだったがようやくここまできました。

 

 

 

 

 

 

今日はその写経した天声人語の中にあった『34万人の不登校』という記事の内容がすごく腑に落ちたので、ここに書きだしておきます。

 

哲学者の三木清さんという方の著書『人生論ノート』の中にこんなくだりがあるそう。

 

孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の『間』にある。

 

この本を読んだ、当時不登校だった中学生は、

集団のなかにこそ、ひとは孤独を感じるものなのだと知ったらしい。

 

 

娘の言葉を借りるなら、「それな!!」というやつです。

これを読んですぐに思ったのは

あぁ…だから、私は人が大勢集まる場所が好きじゃないんだ。

ということ。

例えば、ライブ会場。

同じ推しのファンでありながら、数々のグループがわちゃわちゃ仲良さそうに盛り上がっているのを見ると、途端に場違いな気持ちになってしまう。

年に1~2度しかない推しのライブなのに、始まる前から少し寂しくなる。

なんてもったいないことだろう…泣くうさぎ

と思った。

これは10年くらい前の話。

そこからはファン同士という理由だけで、必要以上に他者と絡むのをやめ(具体的にはSNSからの離脱)、いまは自分にとってちょうどいい湯加減で一緒にいれる友だちと年に一度生存確認でライブにいって楽しめるようになった。

 

大勢の中で孤独を感じるひとには、少なくとも自分の中に、そこに入りたい。という気持ちがあると思う。

でも、実際には入れないから寂しくなる。

この孤独さは、疎外感とも言い換えられるかもしれない。

入れない自分が悪いわけでもない。ただ、そこにいるひとたちと縁がないだけ。

自分に見合った縁は、この広い世界を見渡せば、必ずどこかにあるはず。

なのに一点だけに意識が集中して息苦しさを感じる。

そんなときは、まったく明後日の方向でも見てたらいい。

そっぽを向くのは決して難しいことじゃない。

ただ、すこし勇気が必要になるかもしれない。

 

この『34万人の不登校』という記事の終盤には

人生は旅である。自由な旅である。

と書かれていた。

まったく、同感。

 

ちなみに、大勢の中でひとりいても、まったく動じてないようなひとがいる。

そういうひとを私は、

自分軸がしっかりしている人。

自律している人。

として、めっちゃ尊敬してしまう。

これはカッコいい孤独だ。と。

自分もいつかそんな風になれたらいいな~と思う。

 

5月にブログを開設したものの、結局わざわざここに書く理由が自分でもわからなくて、気づけば半年も放置していた。

以前、別の場所でブログを書いていた時は日記がわりに使っていた。

手書きで日記をつけていたのにもかかわらず、だ。

いやらしい言い方をすれば、ちょっと他人への自慢もはいった自己満足日記だ。

が、コロナ禍、娘の受験など、精神をじわじわやられるような出来事が続いて、わざわざ自分の気持ちを外にさらすような気力がまったくなくなってしまった。

それで、その自己満ブログもとうとう消してしまった。

 

ブログから離れている間も、手書きで日記は書き続けた。

書くことが少なくとも浄化にはなっていると思う。

それは5冊くらい溜まっていて、いまでも時々読み返すことがある。

時間がたって、読むと当時のことがじんわりと思い出されて、それはそれでいい癒しになるのがわかったので、書ける限りは続けていこうと思う。

 

 

じゃあ、ここには何を書くのさ?

となったとき

今朝キッチンに立っていて、すっと書きたいことが浮かんだ。

自分が読んだ本、見た映画、ドラマなどの感想だ。

思うことはいろいろあるのに、こちらに関してはめんどくさくて自分の日記にはあまり書いてこなかった。

というか、自分に向けて、読んだ本の感想をまじめに書くって無理かもしれない。

まず、気合いが入らない。

そもそも、感想とは読み手を意識してこそ、ちゃんと書けるもんじゃないの?

 

 

というわけで、今日からまた好き勝手に想いを綴るブログをはじめたいと思います。

あわよくば、誰かの役に立てばうれしいです。

 

 

 


先日、友だちと石山寺に行ってきた。

GW期間の平日だったので、そこまでの混雑でもなく、そして外国人観光客がほとんどいないのがよかった。

滋賀は好きだ。琵琶湖を望むロケーションがなんかほっとする。

海でもないのに湖から吹いてくる風に海を感じて、心がふわりと軽くなる。

新緑の季節に訪れるのが一番好きかもしれない。

令和が始まった年の5月には三井寺にいった。

今回いっしょに石山寺に行った友は三井寺はまだ行ったことがないそうで、今回も無理をすれば、京阪電車で三井寺まで行くことができたけど、それだと大人の遠足の緩さがなくなるのでやめた。

50代に入って、友だちと『大人の遠足』と称して、関西近郊の寺社とか、花の綺麗なスポットに出かけていくようになった。

電車に乗って、一日で帰ってこれるくらいの場所で、ぐったり疲れず、元気をもらって帰ってくるくらいの塩梅でやる。これがポイント。

若いときは遠くへ遠くへ行きたくて、GWなんかはその友と海外旅行に行ったりもしていた。

が、さすがにコロナだの、テロだの、そして近年では恐ろしい円安。

あ、更年期で体調が刻々と変化しているのもあるな。海外で具合が悪くなったらどうしよう…みたいな心配もしだしたら、とてもじゃないけど出ていく行くような気にはならない。

でも、幸いここ関西にはたくさんのいい場所がある。

なので、あぁ旅行でも行きたいな~なんて家でぼんやりとくすぶってるくらいなら、すっと出かける。

フットワークが軽いうちにどんどん出かけていってやる~

 

ちなみに

石山寺へ行きたいと思ったのは、大河ドラマ『光る君へ』の影響がでかい。

ドラマの最後で紹介されたとき、めっちゃ渋い寺!絶対行きたい!!って思ったから。

そして、まひろがお参りする劇中のエピソードもよかった。

  書くことで己の悲しみを癒した。

が心に残った。

 

自分にはまひろのような文才はないけど、書くことは昔からなぜか好きで。

何とはなしにただ書くことで、自分を癒してきた部分というのは確かにあったよなぁ。と思っているから。

実際、ここ最近読んだ、ヒーリング系の本にも

書くことが癒しになる。

とあったし。

日記という形ではすでに書いているけど、今年は久々にブログのような、外と繋がっている媒体で備忘録を書いてみようかなと決めた。

決めた。

というと大げさだけど、自分のようなタイプは、あまりブログとかSNSには向かないかもな…

とある時期に思って、そこから距離を置いてきた。

という経緯があるので。

その空白の期間は、それはそれで自分を省みることもできて、すごく意義があったけど、ある日ふと、そういえばここ数年であんまり自分の世界が広がってないな…

と気づいてしまった。

 

だから、少しだけ戸を開けて、風通しよくしてみよっかな~という感じで、

今朝、久々にノートPCを触った。

やはり、スマホでブログを書くより楽☆

 

が、12年前のように、今ここ。を置き去りにするほどのハマり方はしないと己に誓って、本日よりはじめます。