※思いつきで、わざと違う論点で書きます。

 

別にどれでもいいのですが(オイ!)
ちょっとひねくれた読み方を。

 

一見、Cを評価したくなるでしょ。
ほら、最近のはやりでもあるよね、

失敗をこわがるな、

とにかく、行動しろ!

なんていうやつ。

 

もちろん、

これだけの情報で

何を判断できるわけはないのだけど、

そして、

どれが「正解」でもないのだけれど、

例えばこれがこういう問いだったら、どう感じますかね。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

Q.起業したい!っていういい歳のオッサンorBBAがいます

 

A.実際起業したこともないし、どうしたらいいかもわかりません。やる気だけ。

B.形式上起業してみました。いろいろ難しいし、勉強したい。恥ずかしいから告知できない。

C.起業しました。クオリティ低いです。お客きません。

 

応援したいの、どれ?

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

読む人によっては、

きっとそれぞれに具体的ないろんな固有名詞が浮かんで

苦笑するかもだね、ごめんごめん。

世界平和のために、これ以上はやめておこう(^ν^)

 

 

高校生、いろんなこと、思うもんだ。

いいじゃないか、ゲームクリエーター。

なりたいなりたい!って、人に言ってまわるのも、

世には出せなくても、コッソリ1人で作り込んで面白がってたり

(私も、中高の頃、下手な絵とか文章とか、書いてたけど人に見せることなんてできなかったよ)、

とりあえず作ってみたよ~!って、即行動して、まあ、評価はアレだけど・・・ってのも、

どれだって、そいつにとって

その時必要なことだよね。

 

その時は、そう思った、というのが事実であれ、

 

そう思ったとおりの将来に持っていけなくたって

何ら恥ずべきことはないよね。

 

そう、

なりたい、やりたい、と思ったことを

即行動にうつせないのはやる気が足りない、とか、

シビアに判断しなくてもさ、

もうちょっと、時間あげたって、いいんじゃない?

 

あの頃、アレになりたい、と思った(気がした、も含む)けど、

それに向かって動けなかったり、

結局なれなかったりするのは、

 

それにはならなくていい、ってことなんだよ。

 

ならなくていい、と、やっちゃいけない、とは別なので、

やるのは構わないし、

やりたいなら存分にやったらいい。

 

投票結果見ると、

Aは応援してもらいにくい印象受けるけど、

このAがもし、

ホントに何も知らないんだけど、

超楽しそうにそんなことを周囲に

言いふらしまくってたら、どうだろうね。

 

夢は、人に語るといい、なんていう説もある。

「だってお前、やる気ばっかりで

実際なにも作ってないくせに」って

バカにされてもなお、

鉄のメンタルで

それを言い続けてたら、

もしかしたら、

そこに近づけるチャンスってくるかもしれないよね。

そんなホラ聞いた中には

ゲームクリエーターになるには

どういうことが必要なのか、

教えてくれる人だって、いるかもしれない。

応援してあげたいかどうかはともかく、

このAには、最大の伸びしろがある!

 

B。

人に見せるのは勇気がいる。

でも、実際作るって、

やっぱり、好きなんだと思う。

自信なんて、最初からあるわけじゃない。

もともと、セルフイメージの高い人ならともかく、

それって、普通だと思う。

いいじゃん、もっともっといろいろ迷ったりしたってさ。

必要だと思うなら勉強して

知識を増やすもよし、

こんなのとてもお見せできないよぅ!って

悶絶するもよし。

Bが、それでも、世に出してみよう、って

自分で決めて動き出した時、

きっとおもしろいことがおきるよね。

 

C・・・は、何かみんなに応援されてるようだから、いっか。

 

というより、投票した人、

ホントにクソゲー作ってる高校生を

応援したいと思ってますかね?

やっぱしさ、私の偏見ですけど、

センスってのは・・・(ry

 

いやいやすまないw

行動力あるよね。

ゲームクリエーターになれるかどうかはともかく、

きっと、興味あることには

何であれ取り組める力がある人だと思う。

だから、やっぱり大丈夫。

 

 

「応援」ってワードに

反応してるのは私だけなんだけど、

私は、基本「応援」ってしないことにしています。

 

だって、

本人がやりたいんでしょ?

やるの、本人でしょ?

それで、充分じゃないかな。

 

私から見たら、

ああ、やりたいと思うことがあって、いいねぇ(*´ω`*)

と思うことこそあれ、

「がんばれ」とか、

「それがうまくいくといいね」

とか、

あんましこだわりたくないんだ。

 

どっちだって、いいじゃん。

 

そうそう、

応援と評価(あるいは結果)は

また別のものでもあるね。

 

その時点でこうなりたい、と思ったものに、

なれたら正義、というのなら、

一度思ったことを貫けないのはダメなこと

になっちゃう。

 

そんなに緊張して力いれてなくたって、

一番いいところに流れていくようになってるものだよ。

 

思うものに、なれたら嬉しいだろうね。

でも、

なれなかったということは、

自分がなるべきものって

それではなかったということで、

いつかそれにたどり着ける余地がまだあるということで、

その時あんなになりたいと望んだものよりも、

もっと、すごいものなのかもしれないよね。

 

それを直接手に入れることだけが全てではなくて、

そのために寄り道したり、

遠回りしたり、

道をまちがえてみたり、

いろんなことしながら

進んでゆく楽しさだってある。

 

そういうのって、実は

全く関係ないと思われることであっても、

必ず、つながるときがくるんじゃないかな。

 

あの時のアレは、

そうか、このためだったのかも、と、

思える瞬間に立ち会えるって、

超スリリングですよ。

 

 

なので、私は

どれに対してもどうとも思いませんが、

 

最初の例の高校生、

強いて、「応援」的なことをしてもいいかなと思うのは

 

気の合う人

 

一択です。

 

 

ええ、好きな人を応援するのに、

理由なんていらないんじゃないのかな。

(※私は好きな人でも「応援」は特にしませんが)

 

逆に、

好きじゃない人は、

どんなに正しくがんばってたところで、

応援は・・・(このくだり、超余計ね)