こうも世の中に閉塞感が満ち溢れた時代も珍しい気がしてならない。よくよく、歴史を調べたらそれは、ままあったことかもしれないけれど自分自身が時代を体感するという意味では、今という時代は未曾有の事である。

 

コロナが世界から日本に広まり、騒動になっている昨今において、残念ながら時の政府や官僚機構は判断力や指針を失っているとしか思えない。少なくとも私自身は彼らが有効な手立てを示しているようには全く思えない。未経験の事で慌ててやむを得ないというだけなら、まだ我慢も出来る。しかしながら現状は最早怠慢か責任の放棄にまで至っているとしか思えない。

 

 しかしながら、この閉塞感は今降って湧いたものではない気がする。僕の感覚では、小泉内閣下の小泉劇場や同調圧力的な空気、誰の為かさっぱりわからない(今となっては間違いであったとすら思っている)聖域なき構造改革…。その後の自民党のほぼ瓦解的な政権からの下野と民主党内閣(正直とっても期待していた)の誕生後の鳩山さんの総理交代劇に東日本大震災とそこで見えてきた日本国そのものの歪な姿。

 

さらに、国民の期待を失った民主党政権の下野と自民党の復権及び最近まで至った長期の安倍内閣。コロナ禍の中の政治スキャンダルと対策のドタバタぶり。それが冷めやらぬ間に政権は放り投げられて棚から牡丹餅式に官房長官が首相となった。この新首相が前政権に輪をかけて思考停止しているようである。国が一歩だけですら前進したという気持ちが一切感じきれないまま、遮二無二右肩下がりをまっしぐらの国の状況。

 

どこに出口があるのだろう。その出口はあくまでも、思考を停止して自分自身が担ぐ神輿を神聖化し、自分たちの事を守ってくれるという安堵感を無理やりでっちあげる事では決してない。

 

Qアノンやトランプ支持者、安倍応援団、NHKをぶっ壊すと言っていた人達やれいわ新選組(私自身はこの中で一番信用できる団体だと思っているし、この例に一緒に挙げるのも躊躇われるくらいである。)を「盲信」することは、個別の対象はもちろん別々の事象であるけれども、どれも支持する人の中に「盲信」から生じる「排除」が生まれていないか、全く同じ構造が構築されていないかという疑念が私にはぬぐえない。

 

天気で例えれば曇天時々雹みたいな日々の中で、ぱっと目に触れて、これはと思える人達のグループ(初めはTikTokだったか)を見つけてしまった。「新しい学校のリーダーズ」と名乗るパフォーマンスユニットである。無論、政治に関係する団体ではない。

 

彼女らは宣言した。「模範的なヤツばかりが評価されるこの時代、くだらない不寛容社会から、個性と自由ではみ出していく」と。そう、政治に疎かったって問題ない。この鬱屈した空気は硬直化した価値観と不寛容さそのものであり、彼女たちは自らの身体と心でそれと対峙するんだと言っている(ちょっと、間違っていたらごめんなさい。でも当たらずしも遠からずかなと思いますよ?)

 

若い四人が掲げるコンセプト、高い歌唱力に超人的なダンスセンス、型にはまらないスタンス、経営戦略、そして屈託のない笑顔、どれをとってもきらきらとして輝いているように思えた。闇の中からパット彗星が浮かんできた感じすらした。

事実上センターにあたるSUZUKAという人が時に狂気を孕んだ笑いを織り交ぜながら美しい声と踊りを繰り広げるのに目が引き付けられていき、やがて実はメンバーの一人一人がそれぞれ一筋縄ではいかない魅力と能力を持ちながら確りと結合しあった結晶なのだということに気が付かされる。

 

その彼女たち、今現在まだ二十歳にもならない人がほとんどの若いグループは、確かに政治的な何かをもたらしてくれるわけでもなければ、生活も守ってくれるわけではない。しかしながら、コロナの中、必死で躍動し活躍し続ける姿は、共感と勇気と元気あるいは、その先の生きるヒントすら享受できるだけの明るさとしなやかさと強さを備えているような気がしてならない。

 

四十年以上ほとんどアイドルに心を奪われたことのない私が、しかも年甲斐もないというタイミングで出会えたのは、意味があるかもしれない。自分自身何かわからないけれど模索して見えない何かの解を見付けられそうな予感をこの若い人たちに感じる。

 

そんな気持ちを一つ一つ言葉にしていく作業は、自分自身にとっては無意味な事ではないのだと思う。不自由の多くなった日本の今の世の中で江戸川乱歩の屋根裏の散歩者よろしく屋根裏から節穴を除くような気持ちで自分に向き合う作業でもある。そうしてもう一つは、この激動の世の中を生きるための答え探しと、生き残るための精神的な修養なのかもしれない。

 

いつか、コロナも去って晴れ晴れとした気持ちで素直に自由が享受できるその日までポツポツと、元気と根気と体調とやりくりしながら呟いてみたい。