3年前に亡くなった祖父 今僕はその祖父の部屋を 使わせてもらって生活しています 若い頃からずっと モデルをやっていた祖父 歳を取ってからも 有志でファッションショー開いたり 大学の講義に行ったり 色々していましたが 孫の私から見ても すさまじくカッコ良くて 90歳になっても背筋曲がらずに 170後半の身長をキープ スーツとかのフォーマルな ファッションに人一倍拘りがあり いつもビシッとしていました 若い頃の写真なんて そりゃもーすごいよ ハットをかぶってポーズ取る 若き日の祖父の姿は 尊敬や憧れを通り越して もはや畏怖すら覚えますw 先日、来月の結婚式の衣装合わせに 彼女と行ってまいりまして 色々と用意する物が判明 ウイングカラーのシャツ カフスボタン ズボン下 これらはその衣装サロンでも 購入出来たんだけど やっぱりちょっと割高だし 少しでも安くて気に入った物が 用意出来た方がいいなーと思い 自分で用意します と言ったので現在模索中でして 祖父はカフスもいっぱい 持っていたと記憶しているので お借りしようかなと 昨日の帰宅後 部屋を探してみました カフスは発見出来ず また祖母らに確認するとして… 祖父の古い写真や日記を発見 相変わらず写真はとても 容姿端麗に写っていて 息を飲むほどでした そして…日記 祖父は長年、というか 僕が記憶している時間の中では 毎日 日記をつけていました 失礼して中を読ませてもらって… とても感じる所がありました いつが日記のスタートかは わからなかったのですが 私が生まれる前の分もあり 50年、いやもっと前から つけ続けていたのかも知れません 私が母から生まれた 昭和57年の事も記されていましたし 名前がついた日 中学校の日々 高校時代の空手の事も 受験の事も 初出勤の日の事も 確かに記されていました 祖父にとんでもない 相談をしてしまった日の事も あの時は本当に申し訳なかったなと 心配かけてごめんと謝りたい 記されていたのは 僕の事だけでは当然なく 妻である祖母が何時にどこへ行った 娘である母が何時に帰った とか 家族の行動が全て書かれていました 祖父は それほど厳格なタイプでは なかったと記憶していますが それでもやはり男らしい男でしたし 家族への愛は当然感じながらも 目に見えて それを 振り撒くようなタイプではなく… どちらかと言うと照れ屋であり おれはおれだと言う生き方を してきた人だと思っていたので 家族の行動が逐一記されていた 祖父の日記を読んで 家族をとても深く愛してくれて いたんだなと そう思いました 僕のスーツやシャツを 毎週プレスしてくれた祖父 ちっちゃい頃は 弟が祖父に懐いていたので 少し遠慮して 同じ様には 甘えられなかった 怒られる事もいっぱいあった 両親の離婚で 父が早くからいなかった 僕達にとっては まさしく父の代わりでした 日記はほとんど 家族や自分の行動の記録で 自身の想いはわずかに 記されている程度でしたが それぞれの日記帳の巻末には 年々病気や怪我の後遺症で 体調を悪くする様子 生きる事の辛さ 死へ向かう気持ち 妹を先に亡くした時の悲しみも 所々に記されていて… 辛い気持ちにもなりました 僕達家族は病気の祖父を どれほどいたわってあげられたのか 勿論当時は精一杯やっていたけれど もっと出来る事もあったのかなあと そういう想いも芽生えてきました 亡くなる少し前 一時的に体調が良くなり 退院してきた祖父 車椅子に乗りながら 介護士さんに押されて 家のドアを開けた祖父が 満面の笑顔で でも声は出せずに 力いっぱい 僕に向かって 持っていたタオルを投げて ただいま!と伝えてくれた 病室で管をいっぱいつけて 体も起こせず声も出せず でも家族が来た事はわかってくれて お見舞に来た僕が帰る時 声を振り絞って 名前を読んでくれた あの時の祖父が記憶に焼き付いて ずっと残っています 退院したら温泉に連れていくと ずっと行っていたのに 結局行けなくて 本当にごめん 最期の時に ばあちゃんは任せろと 誓ったはずなのにな 日々の中で段々忘れている ちゃんとばあちゃんをいたわろう じいちゃんと行けなかった 温泉に連れて行かなきゃ そして家族を守らないと カッコ良い生き方をした祖父には 追いつく術はないけれど それでも自分で誇り 自分で納得出来る生き方をしたい そしてじいちゃんの様に 家族を心から愛する男になりたい 自分の結婚衣装姿を見たその日に 祖父と祖母の結婚の写真を 思いがけず目にした事も 祖父の日記と出会った事も きっととても意味があるのだろうな 僕が家を出る時には じいちゃんのネクタイを もらって行こう iPhoneからの投稿