岩戸開のstory factory
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ミツバチ

ぶーーーーーーーーーん
今日も隣の飛行場からは、ミツバチの羽音のような、戦闘機の飛び立つプロペラの音が聞こえてきます。
その野原には毎日、一匹の小さなミツバチが蜜を取りにやって来ていました。
これは、
むかし日本が外国と戦っていたときのお話。
戦争が始まって、四回目の夏の出来事です。

  ☆

その年の夏は、暑い日続きでした。
その日も、朝から強い太陽の光が家や道路や野原にたくさんふりそそいでいました。
ミツバチは、そんな暑さもなんのその、野原で花から花へ飛び回り、せっせせっせとミツと花粉を集めています。
ミツバチを包み込む青い空と白い雲。
緑豊かな木々と野原いっぱいの草花。
暑いけれど、とてものどかな昼下がりです。
『そろそろあの人が来る頃だわ』
ミツバチは花の蜜と花粉を取りながら、あたりを見回しました。
『あの人が来る前に、きょうの分の蜜を取ってしまわなくちゃ』
ミツバチは大急ぎでミツを集めます。
蜜のふくろがいっぱいになりかけたとき、
「こんにちはミツバチ君」
と、突然人の声がしました。
ミツバチが驚いて振り向くと、そこには半袖の白いシャツを着た、青年の兵隊さんが立っていました。
『あら、こんにちは。
ミツを取るのに一生懸命で、いらしたことに気がつきませんでしたわ』
青年は、野の花にとまっているミツバチを見つめながら、
「どうだい?蜜はたくさん採れたかい?」
と問いかけます。
『蜜はもう、十分採りました』
青年が来て、うれしくて、ミツバチは
花をぽんとけって飛び立ちました。
花がゆれます。
風がささやきます。
遠くで蝉の声が聞こえます。
ミツバチは青年のまわりを、くるくると飛び回りました。
「きみはよく働くね。
ぼくなんか、この暑さにまいってしまうよ」
青年は草の上にこしかけると、手ぬぐいで汗をふきます。
『これが私の仕事ですもの
へこたれてなんていられませんわ』
「ゆうべは敵が来ないか見張っていてあまり寝てないし」
青年は大きなあくびをしました。
「ははは
こんなぐちを言っても、ミツバチ君にはわからないか」
『あら、しつれいしちゃうわ。
ちゃんと言っていることはわかります。
あなたこそ、私の言ってることが分からないくせに』
青年が指を差し出しました。
ミツバチはその指先にとまります。
「しかしきみは人なつっこいね
ふつうのミツバチなら、人が来ると逃げるか刺すかするんだけどなぁ」
青年は指先のミツバチを見つめています。
きれいな水のようにすんだ瞳。
春の日差しのようなおだやかな目。
ミツバチはその瞳に恋をしていました。
『あなただけです。
あなただから、私は逃げないのです』
「ここで、こうしてミツバチくんに話していると、この国が今、戦争をしているなんて嘘みたいだ」
青年は顔をあげ、まぶしそうに目を細めました。
その瞳は、ふっと悲しくかげり、遠くの山の尾根をうつしています。
青年のまわりの草花が、夏の日差しに照らされて、きらきらと輝きました。
『戦争ってなんですの?
なんで、そんなに悲しい目をするの?』
ミツバチは指先からとびたって、青年の顔をのぞきこむように顔の前に行きました。
青年はミツバチに目を向けると、
「きみとこうして話をしていると、落ち着いた気持ちになれるよ」
『まあ、うれしい!』
ミツバチはまた、青年のまわりをくるくる飛びました。

  ☆

次の日も朝から太陽が照りつけ、澄みきった
青い空が広がっています。
ぶーーーーーーん
今日もまた、戦闘機が飛行場から飛び立って行きました。
野原では、夏の風に静かにゆれる草花の中、
いつものようにミツバチが、いそがしく蜜と花粉を集めています。
「やあ、こんにちは」
青年がやってきました。
『あーあ
いつもあなたが来る前に仕事を終わらせようと思っているのに、なかなかうまくいかないわ』
ミツバチは青年につかずはなれず、残りの蜜を集めます。
「虫にくわしい仲間から聞いたんだけど、
きみたち働きバチは、メスなんだってね」
青年はいつものように腰をおろしながら、
「ミツバチ君じゃなくて、ミツバチさんだったんだ。」
と言って笑いました。
「きょうも暑いなぁ」
夏の光が、青年の白いシャツにまぶしく反射しています。
「それから、ミツバチは相手を針で刺すと死んでしまうんだってね。」
やっと蜜をとりおえたミツバチは、青年の肩にとまりました。
「ぼくたち特攻隊といっしょだ。」
ミツバチはその言葉の意味が分からず、青年の横顔を見つめました。
悲しげな横顔。
青年の上を流れる白い雲。
『なんで、またそんなに悲しい目をするの?
何がそんなに悲しいの?』
ふいに青年がミツバチの方を向いて話しかけました。
「ハチミツか、しばらく食べててないなぁ」
青年は、いつものやさしい笑顔にもどっています。
「こんど、少しもらえないかなぁ」
『そんなことできません
私だけのものでは、ないのですもの』
「ぼくも、こんど生まれ変わる時は、ミツバチになりたいな。
ミツバチになって花から花へと飛び回ってみたいよ」
『あら、
ミツバチはミツバチでなかなか大変なのですよ
でも、飛ぶのは気持ちいいですわ』
ミツバチは、青年の肩からはなれると、花から花へと、自慢げに飛びまわりました。
「きみたちはそうやって足に花粉をつけて、蜜をもらうかわりに、草や木が実を付けるために役立っているって聞いたよ。
自然ていうのは、よくできてるなぁ」
『そうです。
虫も動物も植物も、お互いがうまく関係しあって自然を作っているのです』
またまた自慢げに飛び回るミツバチ。
花は大きく開いて、ミツバチが来るのを待っています。
「ぼくたちは、何か役に立っているのかな」
小さくそう言うと青年は、また遠くを見つめたのでした。

  ☆

次の日も、ミツバチのいる野原に青年はやってきました。
でも、なんだか様子が変です。
空は、きのうと同じく晴れているのに、青年にはいつものような明るい笑顔がありません。
青年は、ミツバチに声もかけず、草の上に座りました。
ミツバチは仕事の手を休め、おそるおそる青年に近づきます。
『どうかなさったんですか?
どうして元気がないんですか?』
青年は首をたれ、何かに耐えるように座っています。
ミツバチはどうしていいか分からず、ただおろおろしながら、青年のまわりを飛んでいました。
「きのう、空襲があったんだ」
青年がやっと重たい口を開きました。
「きのう、ここから遠く離れたぼくの住んでいた町が、敵の攻撃をうけたと連絡が入ったんだ」
ふりしぼるような声。
「ぼくの家族が住んでいる町。
父さんと母さん、弟に妹が住んでる町。
しんせきがいて、友だちがいる町」
青年の目からは涙があふれています。
『空襲?攻撃??』
ミツバチには、言っている意味がよく分かりません
「みんなみんな爆撃されて、みんなみんな燃えてしまった」
ふるえる青年の背中。
野原は風もなく、とても静か。
『泣かないで』
ミツバチには何もできません。
「子供のころ遊んだ神社も、通った学校もみんな‥‥みんな‥‥‥」
『泣かないで』
噛み締めるくちびる。
『ねえ泣かないで』
朝露のようなきれいな青年の涙のしずくが、草花の上に音もなくこぼれ落ちます。
ミツバチはどうしたら青年を元気にしてあげられるか、一生懸命考えました。
『そうだ、ハチミツをあげるわ。
たくさんはあげられないけど、少しなめるくらいなら‥‥』
でも、それはいけないことなのです。
ミツバチが、巣からみんなの集めたハチミツを持ち出すことはミツバチの世界ではゆるされない事なのです。
おきてを破れば、きびいしい罰を受けるでしょう。
でもそんなこと言っていられません。
とにかく青年に元気になってほしいのです。
ミツバチは、おきてを破る決心をしました。
『さあ、行きましょう!
私たちの巣へ!』
ミツバチは青年の頭に何度も何度もぶつかりました。
青年が顔を上げると、今度は顔にぶつかり巣の方へと飛んでいきます。
青年は涙をぬぐうと、不思議そうな顔をしました。
「何?どうしたんだい?」
青年は立ち上がり、ミツバチのあとをおいかけます。
「ついてこいって言うのかい?」
『さあ、ハチミツをあげる。
ついてきて!』
「おーい、待ってくれよ」
『こっちよ!こっち!』
ミツバチの巣は、野原から少し離れた林の中にありました。
林の中でも一番大きい木のうろに、巣があるのです。
ミツバチは、青年がついてくるのを確かめながら、林の中に入りました。
『もう少しです。
この先の大きな木です』
「どこへ連れていくつもりだい?」
木々の間をぬって、ミツバチと青年は巣へと向かいました。
『ほら!
見えてきましたわ!
あの木の中に・・・・』
なんだか様子が変です。
なんだかざわめいています。
近づくにつれて、巣の前に赤いものがいくつも飛んでいるのが見えてきました。
『スズメバチ!』
ミツバチはスピードを早め巣へ急ぎました。
巣の周りでは、仲間たちが巣を奪い取ろうとするスズメバチと戦っています。
ミツバチより3倍も大きいスズメバチに、仲間たちは勇敢にむかって行きます。
仲間たちの針の攻撃。
一度きりの針の攻撃。
つかまり、噛まれ、ひとつ、またひとつと力つき落ちる仲間たち。
ミツバチは巣の入口へと突進します。
ブーーーーーン
突然、ミツバチの後ろから羽音が近づいてきました。
ふりむくと、そこには噛みつこうと口を開けるスズメバチ!
ミツバチは必死で逃げましたが、大きなスズメバチにかなうはずがありません。
『ああ!もうだめ!!』
スズメバチの長い足と大きな口が、今にもミツバチにとどいてしまうその時!
バシッ!
その音にミツバチがふりかえると、そこには棒を持った青年が立ってました。
『あの人がたすけてくれた!』
青年は棒をもったまま、巣のに近づくと、仲間をおそっているスズメバチめがけ、棒をふりおろしました。
バシッ!
何度も棒をふる青年。
「スズメバチめ!スズメバチめ!」
そのたびにスズメバチが地面に落ちていきます。
「ちくしょう!ちくしょう!!」
青年は泣いていました。
棒をふり、スズメバチを追い払いながら
大つぶの涙を流していました。
青年の攻撃に、スズメバチはつぎつぎに逃げていきます。
巣からは、仲間たちの歓声が聞こえてきます。
青年は棒をにぎりしめ、息を切らして立っていました。
巣の仲間たちは大喜びでぶんぶん羽音をたてています。
青年は、棒を持つ手をふるわせてうつむくと、
「何で戦争なんかするんだよ‥‥
戦争なんか‥‥‥」
と苦しそうに言いました。
ミツバチは、静かに青年の肩にとまり、ささやきました。
『泣かないで
泣かないで』
なぐさめながらミツバチは、戦争の意味が分かったような気がしました。

  ☆

次に青年が野原に来たのは、3日たってからでした。
『きょうもあの人は来ないのかしら。
せっかく仕事が早く終わったのに』
ミツバチは、夏の日差しをうけて、風にゆれる花の上でじっと待っています。
飛行場からは、ときおり戦闘機のプロペラ音が聞こえます。
ミツバチは、飛行場の方をながめていました。
『そういえば、いつもあそこから飛んでいくものは何なのかしら。
帰ってくるのを一度も見たことがないけれど、どこへ行っているのかしら』
その事を考えると、なぜかとても不安な気持ちになりました。
なぜだか分からないけれど、とても悲しい気持ちになるのです。
また飛行場から、プロペラの音がしています。
「ミツバチさん、こんにちは」
飛行場に気をとられていたミツバチがふりかえると、そこには青年が立っていました。
『こんにちは!
今日は来てくれたんですね!』
ミツバチはうれしくなって、花から飛び出そうとしましたが、青年の、何かいつもと違う雰囲気に花の上にとどまってしまいました。
『どうかなさったの?』
青年はいつもと変わらない澄んだきれいな目をして、笑顔でミツバチを見つめています。
だけど、どこかが違うのです。
「きょうでお別れなんだ」
ミツバチは、突然のその言葉に耳を疑いました。
いつまでも会えるとは思っていませんでしたが、まさかこんなに早くお別れが来るなんて、夢にも思いませんでした。
『お別れって・・・』
言葉も出ません。
「あした、ついに出撃するんだ」
『出撃って何ですの?』
「自分は特別攻撃隊として、明日出撃し、太平洋上にいる敵軍艦と一戦交える」
ミツバチには、その意味が理解できません。
「燃料は片道分だけ。
機関銃の弾がなくなって、燃料がなくなったら、そのまま敵艦に突っこむんだ」
『それは戦争のせい?
あなたがいなくなるのは戦争のせい?』
何をどうすればいいのか、
どうすれば青年が行かずにすむのか、
ミツバチにはわかりませんでした。
ただわかることはもう二度と会えないということ。
青年がすごく恐ろしいことをするということでした。
「きみたちが大きなスズメバチに戦いを挑むように、針を刺して自分も死んでしまうように、ぼくも敵にひと刺ししにいくよ」
青年は明るく言いました。
『行ってはだめ!
あなたはミツバチじゃないわ!!』
「さよなら。
あした戦闘機で飛び立てば、ぼくはもう二度と地面を踏むことはないんだ」
『いかないで!!』
青年はミツバチに向かって気をつけをすると、力強く敬礼をしました。
その澄んだ瞳には、かたく、一途な意志がありました。
けれども、ミツバチにはその奥に深く深く沈んだ悲しみを、痛いほど感じたのでした。

  ☆

青年が出撃する日、
ミツバチは野原で飛行場を見ていました。
もうどうしても止めることのできない運命を見つめていました。
青年と過ごしたほんの短い時間が、永遠のように感じられました。
もう戻らない時間。
もう戻れない命。
バババババ
飛行場から戦闘機のプロペラの音が低くなり始めます。
並んでいた戦闘機がゆっくりと動き始めました。
だんだんプロペラ音が高くなって、ついに戦闘機は、一機、また一機と、ミツバチの羽音を残して青い空に向かい飛び立っていきます。
あの空飛ぶものがもどってこない意味が、ミツバチにもわかりました。
『あの中にあのひとがいるんだわ』
何機目かの戦闘機のガラスが、夏の太陽に照らされてきらりと輝きます。
その中に、ミツバチは青年の澄んだ瞳を見たような気がしました。

  ☆

それから間もなく、ミツバチの巣は、再びスズメバチの攻撃にあい、とうとう奪われてしまいました。
ミツバチたちは、仲間が新しい巣を作る場所を見つけて帰ってくるまで、体を寄せ合いボールのようになって、じっと待っていました。
そして何日か過ぎて、巣を作るのにちょうどいい場所も見つかり、ミツバチの引っ越しが始まりました。
その日はなんだかとても静かです。
「タエガタキヲタエ、
シノビガタキヲシノビ‥‥」
遠くからそんな声が聞こえていました。
ミツバチは仲間から離れ、思い出の野原に寄り道することにしました。
その途中、出会った人たちみんなが
「戦争が終わった」
「日本は戦争に負けた」
と話しています。
野原には、あの日と同じように、静かな夏の風が吹いていました。
飛行場からは、プロペラ音はもう聞こえてきません。
ミツバチは花にとまるとゆっくり辺りを見回しました。
強い太陽の光。
包み込む青い空と白い雲。
緑豊かな木々と野原いっぱいの草花。
何も変わらないのに、何かが大きく変わってしまった様な気がします。
その時、遠くからミツバチの羽音が聞こえてきました。
見ると、一匹のミツバチがこちらに向かって飛んできます。
そのミツバチはまっすぐ前を見て、一直線に飛んでいます。
見覚えのある澄んだやさしい目
「ぼくも、こんど生まれ変わる時は、ミツバチになりたいな」
青年の言葉が蘇ります。
『自分の住んでいた町に帰るのね。
やっと帰れるのね』
そのミツバチは、野原をぬけ、飛行場をぬけて、どもまでもどこまでも飛んで行きました。

                
おしまい

-奇譚- 凛 (14)

こういう状況なので、気は張ってる。
正確に言うと無理矢理張らせていた。
だから、ほころびは至る所に出た。
まずは仕事。
小さな会社の管理職なんて確認と事後処理と、人間関係のクッションにいるようなもの。
実質的な業務は部下が行うが、その責任だけ背負うのが仕事と言っていい。
その対応は時として深夜に及ぶ。
何度となく、面会時間ギリギリで愛美の病室に顔を出し、そのあと社に急いで戻り確認作業におわれるが、気持ちが急いて空回りしているせいか見落としが多い。
結果手戻りが増え作業量が増える。

次に家事。
仕事がそんな状態だから休日出勤が当たり前。
当然おろそかになる家事。一人だからと洗濯物はたまりっぱなしで、気がつくと下着もワイシャツも着るものがなくなっていることもしばしば。
片付けや掃除も同様、台所も食器の山。ゴミも捨てるタイミングをいつも失うので溜まり放題。
寝に帰るだけの部屋が異常な状態になるのも時間の問題となる始末。

「仕事、忙しいんでしょ。凛の世話もあるし、毎日無理して来なくていいのに」
愛美は気を使って言ってくれるが、不安定な状態がつづく容態に会いにいかない訳にはいかない。もうすでに宣告された余命をだいぶすぎている。明日永遠の別れになってもおかしくないこの状況では無理してでも病院通いを続けるしかない。

そして凛。
当然、会いにも行けず、動物病院に任せっきり。
数週間ぶりで訪れたら、先生もさすがにご立腹で、
「奥さんの事も理解しますけどね、ちょっと無責任じゃないですか」
あの穏やかな先生に言われてしまった。
無理もない。金だけ出して病院に放置したと思われても仕方なかった。
私は平謝りで、とにかく今の状況では凛のことまで手も思いも回らないことを納得してもらうしかなかった。


つづく

-奇譚- 凛 (13)

許された外泊は1泊。
愛美は凛を抱きしめる事ができないまま、限られた時間を言葉少なに家で過ごし、次の日の朝病院へと戻った。
凜は、というと、
検査入院の結果は予感のまま、
「癌」。
それも、愛美と同じ子宮の腫瘍。
まったく、どこまで仲がいいんだか。


凛はそのまま手術を行ったが、予想以上に転移がすすみ手の施しようがなかった。
家での介護は無理と判断した私は、そのまま凛を病院に入院させた。
保険の利かない入院は、相当の金額になる。
子供のいない私たちが老後にと蓄えておいた貯金は穴の開いた袋からどんどん流れ落ちていく。
でも、愛美と共に過ごす穏やかな老後が崩れ去った今、流れ落ちる口を押さえることは無意味だった。

「凛は?」
一進一退を繰り返す愛美の、見舞いにいく私への第一声は毎回同じ質問。
「ああ、だんだん良くなってきてね。2、3日中には退院できるって、先生が」
嘘をついていた。
毎回、凛が快方に向かっているとう虚しい嘘を。
実は、担当医に凛の事を相談し、
「私にもそちらの犬の話を良くします。今の、一番の心の支えは凛ちゃんらしい。
 愛美さんには正確に伝えない方がいいかもしれません」
私は素直に賛成し、嘘をくりかえす。
本人の癌のこと余命のことを包み隠さず伝えることは、愛美が昔から希望していたので何のためらいもなく話せたのに、凛の事はどうしても正直に話すことができなかった。
そして、その嘘を愛美は素直に信じているように見えた。
私のに安堵の溜息をつき、微笑み、時には涙を流した。


つづく
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