生まれ方、死に方。

それは出産方法でもなければ、死ぬ場所のことでも状態のことでもない。

あらゆる生まれ方があり、あらゆる死に様がある。
それに良い悪いもない。



この世に誕生したと同時に、私たちは死をむかえるために生きる旅が始まる。


誰にも起こることであり、それが命である。

いのちの時間。
時間は、命であり、生きている時間。


どう生きたか。
すなわち、どう死んで逝くか。


生き方とその延長線上にある死。


最後のひと呼吸まで生き切りたいが、途中で事故や病気、もしくは自ら急死することもあるだろう。
最後の準備をする間もなく、なくなることもあるだろう。


しかしその後の葬式の仕方で成仏が決まるわけでもなく、戒名のランクや祭壇のランクで故人の成仏の行方が決まるわけでもない。



葬式仏教や在り方に疑問を抱き、ほんとうに大切な人を見送る心のこもったお別れ会は、何も既存の葬式をやらねばできないとうことでも、お金をかけなければできないことでもない。


昨年末父がなくなり、お金もなかったこともあるが、無駄な見栄も虚栄も義理もなく、実にシンプルに、父を真心込めて見送ることができました。

そして、それ以来、主人とも自分たちが死んだときどうするか、はたまたその瞬間でいのちの時間をどう生きるか、語り合っています。


今日もかけがえのない一日を過ごせたことに感謝をして
生かされたことに感謝をして
共に二人で眠りにつくことができることに感謝をして
また明日眠りから覚めて、目が逢い、言葉を交わし、共に生きれる奇跡を夢見て
二人ともに眠りにつく。


悲しいかな、例えどちらかが再び目を開けなくとも恨みっこなしで、最後まで共に在れたことに感謝をしあいましょうねと。

毎夜、今日伝えたいことは何かを伝えあって眠りについています。
結局言いたいことは、やはり「ありがとうございます」


私たちにとって、死はどんな意味をもつのか。
私たちにとって、生とはどんな意味をもつのか。

私たちにとって、出産とはどんな意味をもつのか。
私たちにとって、葬式はどんな意味を持つのか。

それは、どう変化しているのか。変化してきているのか。
何が変わり、何が変わっていないのか。

大事なことはなんなのだろうか。

産む場所が、産みかたが問題なのだろうか。
葬式の方法が問題なのだろうか。

だがしかし、ここにすべての歪みが生じているような気がしている。

普通にうまれ、普通に死ねない時代。
この世に生まれてくるのにお金がかかる。
あの世に還るのにお金がかかる。

お金がなければうまれてこれなくて、お金がなければ死ぬこともできない。

おかしい事。
これでは安心して生まれてこれないし、安心して死ねない。


生まれること、死ぬこと。


このあたり前の営みの中に、私たちがどう生きるかの答えがある気がしている。
日本人の進化、意識のステージが上がるような気がしている。


出産が変われば、葬式が変われば、
いや元に戻れば
縄文時代のような愛と調和の時代のときのそれらがどうだったか全ては計り知れないが



日本もよくなるかもしれません。