君は偏差値に毒されていないか。

偏差値なんて人間の能力を両手を広げた長さと考えると、親指と人差し指の間くらいでしかない。

ペーパーテストの測れる能力なんてそんなもの。

それよりも人を和ませたり、笑わせたり。人前で話すのが上手かったり。料理の腕がすごかったり。手先が器用だったり。コツコツと努力を積み重ねられたり。人の心に寄り添う優しさがあったり。

人には様々な能力がある。

そんな幾千の能力の中で、ものを暗記してペーパーテストでいい点数を取ることなど、そんなに凄いことではない。

東大法学部を出てキャリア官僚になり、政治家に転身して秘書にパワハラをしたり、同じく東大を出て不倫をして所属政党を離党したり。

一番頭がいいとされている東大を出てもろくなことをしない人間が少なからずいる。子どものころから我慢して「いい大学に入ったのだから、人より優遇されるのが当然の権利」と思っているのかもしれない。今まで他人を蹴落として生きてきた実感などなく。

君は偏差値に毒されていないか。

いい大学を出て、組織に所属して出世するだけが生きる道ではない。

手に職をつけたり、起業したり、家業を継いで発展させたり。スポーツで身を立てたり、芸術の道に進んだり、芸事を磨いて話術で人を笑わせるのもそうだ。道は限り無くある。

人生に意味など無いのかもしれない。だからと言って粗末にして良いわけではない。

哲学者のニーチェは「神は死んだ」といったが、神など初めから存在しない。仏教でいう「必然」などもなく、すべては確率論的な偶然の産物だ。

もし、完全なる存在の神がいるとしたならば、なぜ人間はこれほど愚かで不完全な存在でしかないのだろうか。なぜ、日本のような小さな島国で年間三万人もの人間が自殺に走るのだろうか。

人生など意味の無いものかもしれない。

だからと言って、無下にして粗末にして良いわけではない。

意味がないのなら、踊れ、遊べ、楽しめ。自分で納得がいくように突き詰めて生きろ。

そうすれば細部に「神」が宿るかもしれない。報われる、報われないが問題ではない。

生きる意味など無いのかもしれないが、人生の道程に引っかき傷くらい付けてやれ。

そのために、踊れ、遊べ、楽しめ。続けられるものを意味など無くていいから、自分の中で「価値」にしろ。

 

2017・9・10  石原泰智

  フェースブックで、大学の友人だった山田洋樹を見かけた。いまや、愛知県で活躍する陶芸作家になっている。これまた、面白いことに、自分が新聞社に入ってからであった愛知県西尾市(旧幡豆町)の陶芸作家の深谷勝信さんとも山田は親交があるという。山田との奇妙な因縁を少し記してみたい。以下、文章。

 

 

 山田洋樹という友人がいる。現在は、愛知県と岐阜県を地軸として陶芸作家の道を歩んでいる。あえて山ちゃんと言おう。彼と出会ったのは1991年4月、名古屋大学の一般教養のクラス会だった。S1-20クラス。56人中で女子はたったの4人。工学部だから致し方ない。山ちゃんは、遺伝子工学などの生物機能学科、私は応用化学科だった。
 山ちゃんも私も、愛知県の中高一貫の私立校出身で、のんびりとしたボンボン同士で気が合った。大学に入って間もなく、5月に仮装行列、6月に名大祭の模擬店で毎日のように準備に明け暮れ、仲良くなった。
 その後、私はアメフット部に入り、大学2年からは河合塾の高校中退生コース「河合塾COSMO」で2年間、大学も行かずにアルバイトにのめり込んだ。少林寺拳法部に入った山ちゃ...んとは一時的に疎遠になった。
 山ちゃんは大学から大学院に進学し、愛知県内の油脂会社に研究職で就職した。一方、私と言えば、その後も脱線続きで大学4年目に河合塾を辞めた後、しばらくして予備校の恩師の牧野剛氏(故人)の参議院選挙に巻き込まれ、選挙事務所で事務局長を担う羽目になった。それは翌年の愛知県知事選挙まで続き、市民運動の選挙から抜けられなくなっていた。そのうち、23歳の私は運動内での人間関係に疲れ、廃人のようになり、勘当されていた親元に頭を下げて戻った。一年ほど引きこもりの生活を送った。
 1996年5月。大学の先輩のK女史から「石原も出版社でアルバイトをして社会復帰のリハビリしたら」と誘われ、名古屋の出版社の営業アルバイトとなった。返品になった本を「改装」といって本のカバーと帯をとっかえるのが仕事だった。背広も来て、トーハンや日版などの問屋や大型店に本を納入するのがルーティンになった。
 大学の籍は残っていた。だが、大学6年目の終わりに「もう単位も取れないだろう」と両親に大学を辞めたいと伝えた。アルバイトしている出版社に潜り込んで、就職しようとたくらんでいた。
 しかし、当時の社長に「石原君、大学に戻ってけじめをつけてきなさい。今のままでは、君はしんどいときに困難から逃げる人間になる」と諭された。私は「出版社は文系で、私が通っているのは工学部。出版の仕事に何も関係ないし、早く仕事がしたいです」と反論した。
 その出版社で、予備校の恩師だった牧野剛氏の「されど予備校」の企画案も出して、本作りも始まっていたのだが、結局、あまり納得もせずに大学に戻ることとなった。
 大学7年目。一般教養の単位は取っていたが、専門の応用化学科の単位は、1年生の時に取った「化学序論」の2単位だけ。学科の事務は、1年間で60単位を取らなければ、4年でも研究室配属はさせずに除籍にします、と言い渡された。
 そんな時に山ちゃんと再会をした。山ちゃんは大学院までいったので、就職して1年目で、私と言えば、卒業できるかも解らない、半分プー太郎のような大学7年生。25歳の春だった。

 

 順風満帆のように思えた山ちゃんの人生。しかし、それは一気に暗転する。山ちゃんは、就職してからしばらくして「化学物質過敏症」を患った。研究室で薬品を曝露したのが原因ではないかと言っていた。藤田保健衛生大に見舞いに行った時のことは忘れられない。ちょっとした空気中のほこりでも目が痛むらしく、医師には失明するかもしれない、と宣告されていた。山ちゃんはベッドから身体を起こした状態でボソりとつぶやいた。
「大将(当時、私はそうよばれていた)、俺はどうしたらいいのだろう」
 私は答える言葉が無かった。

 絶望というのは、心が折れるというのはこういうことなのか。今でもこの時のことは鮮明に覚えている。


 山ちゃんは失明だけは回避したが、失意のうちに勤めていた油脂会社を退職した。その後は、父親の鉄工所を手伝ったという。しかし、そんな逆境に立ち向かうのも山ちゃんだった。山田は、土地家屋調査士の勉強を始めた。そんな山田を支えたのが、大学時代からの彼女だった。彼女もすごい経歴の持ち主で、名古屋大の建築学科を卒業後、小さな設計会社に就職したが、物足りずに一念発起して東大の大学院に進学。一級建築技師の資格を取り、大学院を修了して、法務省の技官のキャリアとして入省した。そして、物心両面で山田を支えた。
 山ちゃんは1年で見事土地家屋調査士の免許を取得した。

 一方、私は大学に戻った。周りの人たちは「どうせ、また大学に来なくなるよ。卒業なんて無理に決まっている」と思っていた。そんな時、私を励ましてくれたのが、名古屋の今池商店街の育ての母に当たるKさんだった。Kさんは「石原君、みんなが馬鹿にしているから卒業して見返してやりなさい」と温かい声をかけてくれた。大学入学時の同級生は、とっくに卒業している中で私は年間100本くらいのレポートを書き、テストも2年から4年生のテストを受けた。3年分の時間割が重なっているので、出席が厳しい授業に出て、のこりの2年分の授業は「テストだけは受けますのでよろしくお願いします」と教官に申し出ていた。前期と後期の期末テストのときは、一日に3、4つのテストが立てつづきにあるのだが、何とか全科目突破し、1年間で83.5単位を取得した。   

 

  私はその後、地元の新聞社に入社した。初任地は長野だったが、山ちゃんが土地家屋調査士を合格し、合格率数パーセントの司法書士を目指すと聞き、夕刊の記者コラムにそのことを書いた。名前は伏せて、匿名だったのだが、山ちゃんの父親が「これは洋樹のことじゃないのか」と記事を手渡したという。
  2003年に私が名古屋に転勤となり、山ちゃんはまだ司法書士試験の勉強をしていた。名古屋の千種公園でなぜだが、キャッチボールをしたのを覚えている。お互い紆余曲折しながら、自分の生きたいようにしか生きられない「人間の業(ごう)」を感じながら、これまでのことを振り返った。
  やがて、山ちゃんは二度目の挑戦で司法書士に合格した。自分もお祝いをし、「山ちゃん、カミさんに今まで支えてもらったのだから、今度は支えないとね」と話をした。...
  山ちゃんは、イソ弁のように最初は司法書士事務所に勤めたが「早く独立したい。土地関係に特化した業務をするよ」と言っていた。やがて名古屋の駅前に自分の事務所を構え、前途は洋々たるように思えた。
  だが、そのうち、山ちゃんから連絡が入り、自宅に遊びに行った。山ちゃん曰はく「司法書士は面白くねーがね。息が詰まってきた」という。独立独歩の資格業で誰もがうらやむ仕事なのにそんな駄々をこねるようなことを言っている。
  山ちゃんが座っている机の隣には、なぜか沖縄のシーサーの素焼きがあった。私はもしやと思い「陶芸家になりたいの?山ちゃん」と尋ねた。山ちゃんは「うん」とうなずく。
出会ってから15年。そんな焼き物に興味があるなどとは知らなかった。そう思って部屋の中を見ると、いくつかの素焼きの作品が並んでいる。ただ、その時の私の感想は、素人としては上手いが、プロとしては厳しいというものだった。
  山ちゃんが言い出したら効かないのを知っていたのだろう。カミさんは瞳に涙を貯めながら「山ちゃんが好きなことをしてくれたらいいから」と半ばあきらめ顔だった。
  うーん、と思いながら、私は山ちゃんに言った。「陶芸をやるなら、茶器や花器を焼かないとお金にならないよ。あと、自分が以前アルバイトをしていた出版社の社長は、岐阜や瀬戸の陶芸家をよく知っているから、話ができるかもしれないけれど」
  そして「3年間だぜ。3年間で芽が出なかったら、司法書士に戻るんだぜ。カミさんのためにも。約束だぞ」というと、山ちゃんも決意を固めたようで、すっきりとした表情になった。

  山ちゃんと私は、そんなに頻繁に会う間柄ではない。ただ、お互い人生の岐路に立った時に会って話をする感じだ。私が、新聞社を辞めた2010年もそうだった。

  山田はその後、岐阜で自らの師匠を見つけ美濃焼の修業をし、多治見に窯を構えた。山ちゃんのすごいところは、それから3年後に名古屋の百貨店「松坂屋本店」で、ちゃんと自分の個展を開いたことだった。孤独と見つめあいながらの作品作りだったと想像する。膨大な時間の中で、自分と向き合うことは大変なことだ。口下手な山ちゃんが、自らの思いを作品に託し、自己表現する。その思いのしずくの結晶のような作品が感動を呼ぶのだろう。
  山ちゃんに最近電話をしたとき「どうせなら人間国宝を目指せよ」とはっぱをかけたら「人間国宝は、政治の世界だから」と実力では成れないこともない、という口ぶりだった。
  今までも、コツコツと自分の目標に向かって努力を続け、道なき道を歩んできた山ちゃん。そう山田が言うならば、また陶芸の道も究めるのだろう。
  今はネットで「山田洋樹」と打ち込んで、その活躍を見守るのが楽しみになっている。

 

                             2016・9・8  横浜にて   石原 泰智

 

     

     

      大リーグで活躍するダルビッシュ有の右ひじ靭帯部分断裂が報道された。


      松坂、田中将大、ダルビッシュ…。


      高校時代に甲子園で活躍し、海を渡ったエースたちは異国の地で右ひじを故障した。


      高校時代の投球過多か。大リーグのNPBとの球の違いか。スプリットに頼る投球法の差か。先発投手に課せられる中四日の投球間隔か。

      それが複合的に重なっているかもしれないが、多くの投手が故障に見舞われる。


      元ソフトバンクの和田も、元阪神の藤川もそうだった。


      アスリートが、より高みの舞台で自分の能力を表現したいという欲求は否定しない。その能力により、日本よりも多くの対価が見込まれる大リーグでプレーしたいという意思は尊重されるべきだろう。


      故障の無いアスリートはいない、といえるが、その圧倒的な力感に満ちた投球をなるべく長く見ていたいというのがファンの心情だろう。


      自分もスポーツ記者として、高校時代にダルビッシュや田中将大の投球を甲子園で目の当たりにした。


      高校生でも軽々と150キロ超の直球を投げ込んでいた怪物たちの復活を願ってやまない。


      2015・3・9 横浜にて 石原泰智