以下、下向井龍彦『日本の歴史07―武士の成長と院政』から引用

 

 桓武平氏の祖、平(高望(たいらのたかもち)。桓武天皇の孫で生涯無位で終わった高見王の子である。『平家勘文録(へいけかんもんろく)』(琵琶法師のために『平家物語』の由来を説いた秘伝)は、都での謀反を平定し、寛平年間に上総介となって朝敵を平らげ平姓を賜ったという伝説を載せる。彼の息子たちはみな、坂東諸国に土着して国衙官人になり、武士として勢力を張った。高望は上総国押領使として赴任したものと推定したい。
 後世「利仁(りじん)将軍」の通称で親しまれた伝説的武士、藤原利仁(ふじわらのとしひと)。彼は芥川龍之介の小説「芋粥」で、芋粥をたらふく食べたいというしがない「五位」を越前の館に招き、大勢の従者に芋を持ってこさせて粥を作らせた富裕な豪族として描かれている。題材は『今昔物語集』の説話からとったものである。『今昔物語集』の別の説話では、利仁は新羅征討将軍に任命されて出征する途中、頓死したことになっている。利仁は平安後期には、もっとも初期の伝説的武士として語られていたのである。祖父高房(たかふさ)は「膂力人に過ぎ、甚だ意気あり」と評され、美濃介のとき単騎で妖術集団を追捕したといわれる武芸好きの官人であった(『文徳実録』)。高房は受領時代、俘囚から騎馬個人戦術を学んだのではなかろうか。利仁は高房が越前守護時代に築いた富豪経営と俘囚戦術を受け継いだ、王臣子孫=勇敢富豪層だったと思われる。『鞍馬寺縁起』(原型は11世紀初頭に成立)は、追討宣旨を受けた利仁が、都に送る調・庸を掠奪していた下野国高蔵山(たかくらやま)の群盗千人を、鞍馬の毘沙門天の加護と自らの経略によって追討したという武勇伝説を伝える。『縁起』のいう群盗は、寛平・縁起の群盗蜂起のことである。『尊卑文脈(そんぴぶんみゃく)』(室町初期に成立した諸氏の系図集成)では利仁を上野介としており、武芸を見込まれ上野国押領使に抜擢されたものと推定したい。彼の子孫は、越前・加賀を中心に有力武士団、斎藤党として成長していくが、早くに清和源氏の家人となった家系もある。
 後世「俵藤太(たわらとうだ)」の通称で親しまれた伝説的武士、藤原秀郷。彼は将門の乱では将門の首を討ち取る最高の武勲に輝き、子孫は小山・藤姓足利氏ら北関東の武士団として発展した。奥州藤原氏も秀郷の子孫である。秀郷には荒唐無稽な武勇伝が伝わる。弓の名手であった俵藤太秀郷は、近江瀬田橋で龍神から三上山(みかみやま)に棲む大ムカデの退治を頼まれ、退治したお礼に龍神から黄金の太刀と鎧をもらい、この太刀と鎧を着け、龍神に教えてもらった将門の弱点を攻めてみごと将門を討ち取ったという。中世ドイツの伝説の騎士ジークフリートを連想させる室町時代の御伽草子「俵藤太物語」のあらすじであるが、俵藤太の通称は『今昔物語集』にもみえ、ムカデ退治伝説は早くに形成されていたのではなかろうか。播磨介として俘囚管理に当たったことが確認される曽祖父藤成(ふじなり)は、俘囚戦術を学んだことであろう。『尊卑分脈』によれば豊沢(とよさわ)・村雄(むらお)・秀郷の子孫3代は下野国下級官人の娘を母としており、王臣子孫=勇敢富豪層として下野国内で富豪経営と騎馬戦術を受け継いだものと思われる。寛平・延喜の東国の乱にあたり、秀郷は下野国押領使に任じられて群盗鎮圧に活躍し、下野国内に大きな勢力を築いていったものと推定する。
 これら平高望・藤原利仁・藤原秀郷の3人こそ、群盗勢力との激しい戦闘を通して新たな騎馬個人戦術を開発し、武名をあげた武士第一号といってよいだろう。彼らの勇敢な戦いぶりが、超人的な武芸によって反乱や怪物を退治したという武勇伝説を生み出したのである。乱平定の後、平高望は上総介になり、利仁は上総介からさらに鎮守府将軍になっている。これらの任官は勲功によるものであろう。高望も利仁も秀郷も、通常ではもはや貴族社会に参入する見込みはなかった。彼らは、勲功の恩賞によって貴族社会に復帰することを夢みて、反乱鎮圧に志願したのではなかろうか。
 この時期に武名をあげて武士になった人物として他に、武蔵権介源仕(みなもとのつかう)(嵯峨源氏。摂津渡辺党の祖)と、秩父牧司(まきし)から武蔵掾・介・守へと異例の昇進を遂げた高向小野)利春{たかむこの(おのの)としはる}(武蔵七党小野氏の祖)をあげることができる。2人は延喜19年(919)に武蔵国府で合戦をしている。