何度思ったことだろう。
その声が聞きたいと。
名前を呼ぶ声は沢山あれども、あたしが願うのは唯一つだった。
この深く暖かな呼び声だけを、ずっとずっと待っていたのだ。
■■■
頭に浮かんだ言葉が、鼓動と同じリズムで明滅する。
心臓がドクンと大きく脈打って、体がドカンッと暖かくなって、手足の先にまで熱が行
き渡るような──そんな不思議な感覚。
「…… ……」
あたしは空気を求めるように口を開く。
息を吸おうと思った。
けれど、体は動かなかった。
なぜか小刻みに震え続けていて……それなのに、動こうと思っても体が動かないのだ。
喉の奥には重い蓋があり、空気すらも通らない。
まるで時が止まったように体が硬直して、手も、足も、心はその人を求めているのに、全く動いてくれなかった。
(…… ……)
思考まで止まる。
何も思いつかない。
誰も何も言わなくて、誰も動こうとしなくて……本当に時が止まったかのように、そこには無音の空間ができていた。
「ベル」
その空間を裂いて、もう一度名を呼ばれる。
先程よりも近く、少しだけ大きく。
けれど、あたしは振り向けなかった。
そんなあたしに焦れたのか、背後の人がしゃがみこむのを背中越しに感じた。
空気と熱が動く気配。あたしのすぐ後ろからその人は手を伸ばし、あたしの両肩をそっと掴んだ。
──嗚呼。
嗚呼、なんて、なんて、懐かしい熱。
なんて暖かくて、胸に痛い形。
『誰か』なんて問うまでもない。
この声、この熱、この形。わからないはずがないのだ。
このあたしが……!!
「ベル」
声はすぐ後ろから聞こえた。肩に込められた力で体が動く。意志のない硬直した体が背後を向く。
視界が動いた。
止まったままだった全てが流れて、
そこに、
見たいと、
思った、姿、が……
──レメク。
一瞬で、その全てがぼやけた。
だけど、ぼやけた視界には黒い影があり、両肩には熱がある。
震える体はそのままに、口がいっそう大きく開く。
「……ひィいイ……ッッック……!」
変な音が響いた。
何の音かわからなかった。
瞬きしても視界は変わらない。ただ、黒い影が驚いたように息を呑んだ。
──レメク。
頭のどこかで、文字が躍る。
──レメク!
止めようもなく全身が震え出す!
あたしは両手を伸ばした。
暖かい人の手が、そんなあたしを引き寄せる。
無意識に、戦慄く口が大きく開いた。
そうしてそこから、何か、言葉ですらない音が迸った。
※ ※ ※
ビリビリと近くの窓すら震えさせたその音に、視界内にいたメイドさん達がぎょっとして耳を塞いだ。
あたしを腕の中に引き寄せた黒い人は、ただ息を呑んでこちらを見下ろしている。
「~~~~ッ!!」
長く長く迸っていた音が、体中の空気を出しきってかすれて消えた。
頭の中が真っ白になっていて、うまくものを考えられない。
体中から絞り出した力が、音になって出たような感じだった。音は「あ」や「わ」の音に似ていたが、麻痺したあたしの頭にはよくわからなかった。
喉がひきつれたような音をたてて、失った空気を奥へと送り込む。それはまた大きな音となってあたしの口から放たれた。
「……ベル」
あたしの声に──そう、あたしの声だ──レメクはあたしを抱き寄せる。
腕の中に閉じこめられて、あたしの声は微妙にくぐもった。
レメクはため息をこぼすようにして息を吐き、あたし頭にコツンと頬を当てる。
「……ベル」
(…………!)
少しだけ切ないその声に、あたしの喉が再度引きつった。
ギュッと抱きしめられているせいで、体はほとんど動かない。それでも一生懸命もごもご動いて、わずかな隙間でトンと拳をお見舞いした。
「ッ……!」
トン。
「ッ……!」
トン。
「ベル」
トントン叩くと、レメクが優しく名前を呼んでくる。
あたしはもう一度拳を打ちつけ、声の限りに叫んだ。
「ばかぁッ!」
力一杯の声だった。
周りがぎょっと後退る。
あたしは構わずさらに叫んだ。
「ばかばかばかーッ!!」
トントンポカポカ。
小さく拳を打ちつけるあたしに、レメクが少しだけ驚く。
あたしは泣きじゃくりながら、いっぱいいっぱいの思いで拳をお見舞いした。
「レメクの馬鹿ぁッ!!」
レメクは避けない。ただ黙ってあたしの拳を胸で受けて──
何故かはんなりと微笑みを浮かべた。
「し、しんっ…しんっ」
しゃくりあげる喉のせいで、顎がガクガクいってる。
まともに喋れないのがなんだかすごく腹立たしくて、八つ当たりのようにレメクをポカポカ叩いた。
レメクは優しく微笑うばかりで、それがなんだか無性にくやしい。
「しんっ、配、したぁッ!」
声に出したとたん、いっそう涙がこぼれた。
寂しかった。
悲しかった。
もう会えないかもしれないと思った。
手を伸ばしても触れられなくて、声が聞きたくてももう聞けなくて……お母さんやプリムみたいに、もうどうやっても会うことのできな場所に行ってしまうのかと思った。
「こ、こ……」
まともに呼吸ができないあたしの頬をレメクが暖かい手で拭ってくれる。
あの時は「熱い」と思った手が、今は心地よく温かい。
あたしは自分からギュッとレメクに抱きついた。
レメクの手があたしの背を撫でる。
「こわ、か……ッ」
「……ベル」
恐かった。
ものすごく恐かった!
人は簡単にいなくなってしまうのだ。元気に見える人でも、本当に、目を閉じて開いた次の瞬間には、あっけなくいなくなってしまうのだ。
だから────!
「も、もぅ……あ、えな……かった、ら」
もし、レメクが、
「いな、く、なっ、っちゃった、ら!」
どこかへと、いってしまったら。
「あた、し、どうや、って……生き、て」
これから先をどうやって、生きていけばいいのだろうか?
どうして……生きようなんて、思えるのだろうか?
この人を喪って生きる世界に、意味なんてありはしないのに!
「い……き、て……」
「……ベル」
泣きながら声をあげるあたしに、レメクはけぶるように眼差しを細める。
その、綺麗な綺麗な──夜明け色の瞳。
「すみませんでした……」
その声に、あたしは一層大きく泣きじゃくった。
レメクが謝る必要は無い。レメクが倒れた原因だってあたしにあるのだ。レメクはむしろ怒るべきなのだ。
それでも彼は、泣いてるあたしのために両手を広げて、理不尽な言葉を受け止めてくれる。抱きしめて、暖かいものの中で、あたしを癒してくれるのだ。。
なんていう人だろう。
そして、あたしはなんて愚かで我が儘な人間なんだろうか。
こんな時だと言うのに、ここにいてくれるレメクに、「おかえりなさい」も「ありがとう」も言えないなんて!
「お、おじ、しゃっま。あ、」
呼吸が変になっていて、しゃっくりに声が何度も潰される。
レメクはあたしの髪を丁寧に撫でながら、ほろりと笑みを零して言った。
「……倒れている時、ずっと、あなたの声が聞こえていました」
あたしは唇を引き結ぶ。
見たいと願い続けた人の顔。
綺麗な黒髪と、綺麗な赤紫の瞳。
「いつだって、あなたの声が聞こえない時は無かった……」
あまり日にやけていない肌。
着ている服は懐かしい黒い服。
金糸銀糸の縫い取りがあるのは、きっとここが王宮だからだろう。
「こんなに小さいのに、あなたは……あんなに大きな声で、呼び続けてくれたんですね……」
レメク越しに見える王宮の天井。
色彩豊かな美しい模様と、品良く配置された典雅な装飾。
向かって左側の壁には窓。そこから見えるのは、どこまでも澄みきった空の青。
色のある世界の、そのなんと美しいことか。
「ベル……」
優しい声があたしを呼ぶ。
二つの音で作られた、あたしの名前を。
抱きしめ合った体から、交わした言葉から、暖かいものの全てが互いに流れ込む。
あたしはギュッと唇を引き結ぶ。
会いたかった。
ただ、会いたかった。
強く、ただひたすら純粋に──傍にいたかったのだ。
この人の傍に────
「あなたに……会いたかった」
「ふ……ぅえ」
安堵とも歓喜ともつかないものに思考を奪われて、あたしの口からまた大きな音の塊が飛び出す。
レメクはあたしの髪をもう一度撫でると、しっかりとあたしを抱きしめてくれたのだった。