昨日も春の日差しが降り注ぐ穏やかな一日となり、大阪府下に唯一の村となった千早赤坂村の水分を訪ねて来ました。

$太古のブログ-楠公生誕地

楠木正成が生まれた楠家の旧跡が、ここ千早赤阪村水分山ノ井にあり、明治の元勲大久保利通の奨めで楠公誕生地の顕彰碑が建てられています。直ぐ近くには楠公産湯の井戸と伝えられる跡もあり、今もわずかに清水が湧き出していました。郷土資料館も近くに併置され、楠正成に関わるものや郷土の生活史を伝える用具なども展示されていました。



展示品を見ていると、子供の頃に親に連れられてこの里の凍豆腐を大豆と引換に求めに行った記憶がぼんやりと蘇りました。かっては村の重要な産業であった凍豆腐も、時代の流れと共に衰退し、今では歴史民俗資料として製造用具が展示されています。

楠公誕生地を少し行くと、奉建塔という巨大な石造物が小高い丘の上に聳えているのが見えて来ます。丘の周囲には一面に水仙の花が咲くことで知られていますが、花の盛りはすでに過ぎ、黄色い菜の花が咲き始めていました。


奉建塔が立つ小丘は、かっての上赤阪城の出城があった浄心寺塞跡だということで、この地に楠公精神の発揚を図るため、楠公信奉者が全国の児童や若者、教師等に寄付を呼びかけ、大楠公600年の記念碑として昭和15年に建設されたと記されていました。



楠木正成というこの里が生み出した傑出の歴史像は、正成や一族、里人の思いとは別に、時代の流れの中で様々な評価を受け、時の為政者に戦意高揚に利用されて来たことも一面の事実で、この巨大な碑もその歴史遺産のように思えてなりませんでした。


この奉建塔の丘を下ると建水分神社の杜が見えて来ます。かってこの神社の秋の例祭で訪ねたことがあり、お旅所(北西の比叡前)で行われる勇壮なだんじり祭りに、近郷氏子によって担ぎだされる神輿渡御を拝見しました。
祭神は、この地に静まる水分けの神様で、水越川と千早川の水を制する河南台地の要衝に位置しています。この地を本拠とした楠氏の氏寺であもあり、在郷18ケ村の産土神、金剛山の総鎮守として祀られてきました。



正成一族はこの地において水運を差配し、水利を一手に治めていた南河内の豪族であったとも言われ、その楠氏にとってこの神社は特別な意味を持っていたとも思われます。境内には摂社として正成を祀る南木(楠)神社がありました。

この後、水越峠を越えて御所に抜けようかと思いましたが、車の通行量がやたらに多く、断念してバス停のある森屋に下り、早目に帰宅しましたが、あとで上赤阪城跡に立ち寄るのをすっかり忘れてしまっていました。
大阪の南河内に住みながら、富田林市甘南備にある楠妣庵を訪ねたことはなかった。昨日、観心寺の梅を見に出かけた後、帰路はいつものように延命寺に抜けて三日市駅まで歩くつもりだったが、ふと楠妣庵を訪てみたくなった.。


観心寺バス停を左に折れると「楠妣庵十丁」という丁石がある。丁石の1丁はおよそ100メートルだから、1キロ程度の距離なら、と自動車道を歩き始める。千早赤阪村の小吹台住宅に至るバス路でもあり、結構通行量が多く、勾配のある車道を車が前後からぴゅんぴゅんとすり抜け、歩道もないので歩くには不向きな道だった。

峠を越えた小吹台口バス停で道が二方向に分かれている。さてどちらを行けばいいのかと辺りを見回しても表示はない。たまたまリュック姿の方が通りかかったので、楠妣庵への道を尋ねると、すぐ近くに林道に入る表示版があると教えてくれた。


通行量の多い道を外れてやれやれである。薄暗い杉林の中を下ってゆくと、路の傍らに「楠妣庵三丁」の丁石が見え、めざす楠妣庵は直ぐのようだった。前方が明るくなった左手に急勾配の石段が見えた。どうやら楠妣庵のようだ。

太古のブログ-楠妣庵
楠妣庵の裏口に出たのかと思ったが、階段の横には楠公の母子像(正行と母久子)があり、上の方に山門が見え、その右手には正成の像が立っている。どうやらこの細い山道が参道のようである。直ぐ近くに里の民家が見えていた。


小さな山門をくぐると、立派な本堂がある。その本堂と向きあって小高い丘があり、石段に大楠公夫人墓と刻まれた小さな石標が確認できた。石段の中程横脇に胸像が据えられていて、誰かと訝ると、幾度かの戦火や明治の廃仏毀釈で衰退していた寺を、大正のはじめに復興した人物の顕彰像だった。


正成の夫人久子の墓域は、静謐に保たれ、塵一つなく清められていた。楠一族の菩提を弔いながら晩年の16年を過ごした草庵や念持仏を収める小さな観音堂も、南北朝の動乱とその後の歴史評価の変転を静かに見続けて来たに違いない彼女にふさわしい佇まいを見せていた。


境内には秩父宮や昭和天皇が皇太子時代にお手植えされたという楠の樹木があり、楠一族への皇室の思いを垣間見る墓域である。



誰一人いない墓前に佇み、生まれ在所のこの甘南備の地で、61歳の波乱に富んだ生涯を閉じた久子夫人に、静かに瞑目した。はじめて訪ねた楠妣庵だが、今も大切に守り継がれていることに、あらためて670年という長い歳月を思い起こされた。


西吉野町(五條市)の「津越」という山里に、自生の福寿草の群落地があると聞いて、昨日、出かけて来た。


朝から雲が低く垂れ込め、風も冷たい生憎の天気となっtが、天気は回復模様。福寿草は陽が射さないと花が開かないので、現地に着くまでに陽が射してくれることを期待しながら、予定通り近鉄御所駅から新宮行の特急バスに乗車。途中から歩き仲間の方も乗車して来て、ご一緒することになった。


バスに揺られること70分で、元町役場(今は五條市西吉野支所)の建物があるバス停「城戸(じょうど)」で下車。ここから津越の郷まで、およそ小1時間の山道を歩く。


バスを降りる頃から氷雨が降り出したが、降ったり止んだりで、歩くには支障なさそうな小雨で、かえって山道は汗ばむこともなく快適かと思うものの、さて陽が射すかどうか、やはり気がかり。


ここ西吉野には古くから湯治場があり、亡くなった両親がたびたび訪れていた西吉野温泉のことを思い出す。今もその施設があり営業しているところをみると、結構利用されているようだ。


しばらく丹生川沿いに歩くと、支流が流れ込む橋の手前に、津越方面への案内表示が出ていた。この表示からは支流沿いに一本道の緩かな上りとなる。登り道に入ると、さすがに冷え切った体も温まってくる。ときおり陽も射してきて、期待がもてそうだ。


やがて、津越の里に入る。「天空の郷、福寿草の郷」と書かれた大きな案内板があり、ここからは急峻な登り道になる。郷の頂きあたりに浄土真宗の「稱名寺」というお寺があり、福寿草はこの寺の下斜面に群落を作って自生しているようだ。


お寺を見上げるところまで登ってくると、斜面に福寿草観賞用の遊歩道が設置されていた。やはり陽が射していないので、福寿草のあの黄色い花があまり開いていない。福寿草は山斜面のあちこちに目にすることができ、中にはかなり開き始めている群生もあった。

太古のブログ-津越の福寿草
地元で製材の作業をされていた方にご挨拶すると、先日の日曜日は好い天気で、たくさん花が開いていたが、今日のこの天気は生憎だったな、と慰めてくれた。暖かい日にもう一度来るつもりとお返事して、再び氷雨が降り始めた山道を下る。寒いので、リュックから取り出したおにぎりは、歩きながら食べることにした。


開いている福寿草の花はあまり見れなかったが、「天空の郷」と表示された山深い里に自生する福寿草の群生を見ることができただけで今回は満足。地元の方によって大切に守られている自生の群生地を訪ねた往復10キロ近くの遊歩も、話し相手もあって苦にならない楽しい距離だった。


山を下りてくると、14:46発の八木行特急バスに間に合い、比較的早く帰宅することができた。
できれば今シーズン中にもう一度再訪したいと思っているが、果たして実現するかどうか(^^ゞ


毎年旧暦の正月14日(今年は2月16日)に執り行なわれる、あの古式の舞をもう一度観てみたいと、昨年に引き続き訪ねて来ました。
太古のブログ-国栖奏

応神天皇の吉野宮行幸に際し、国栖人が一夜酒を作り、歌舞を奏して天皇をもてなした故事に起源をもつと伝えられ、3世紀中頃からこの里に伝承された古式舞です。

伝統行事の舞台となる浄見原神社は、吉野川の断崖に隠されたように祀られる小さな祠です。祭神は天武天皇で、壬申の乱で大海人皇子を近江軍からかくまい、そのとき国栖奏を奏してお慰めしたことから、天皇から翁の称を賜り、天皇即位の大嘗祭にも招かれて国栖奏を奏したと伝えられています。

国栖奏は天皇家に関わる伝承歌舞としてたびたび宮中行事に招かれ、賜った楽器は今も伝統の神饌とともに歌舞が演じられるまでお供えされています。

この国栖奏が演じられる拝殿は、細い参道いっぱいに設えられ、その周囲は吉野川の断崖と急峻な山斜面が迫るわずかな空間しかないため、少しの参拝者でも溢れかえる狭隘さでした。

この日も、山斜面の僅かな足場に片足を乗せ、岩に片手を添えてバランスを取りながら、人垣越しに、この古から伝わる国栖人の歌舞を辛うじて垣間見ることができました。遠方から参拝された方も多く、伝承の国栖奏がどのように演じられるのか、その雰囲気でも味わいたいと、制約があればあるほど思いが募る様子でした。

時間ほどで国栖奏が終わると、お供えの神饌が下げられ、帰り道の参道に並べられて間近に目にすることができます。伝統の神饌は、赤蛙、根芹、うぐい、一夜酒、栗の五品で、いずれも国栖の里に来られた天皇に献じられたという由来の品々が今も受け継がれています。この一夜酒は、希望の参拝者にはすべてにふるまわれます。

神饌中でも特に赤蛙の確保が難しくなっているというお話でした。冬眠直前の赤蛙を捕まえて、当番の方が催事までの間、籾殻の中に入れて大事に保育しているようです。冬眠中の蛙ですので、間近に見ても網の中の葉陰で眠っているようですが、わずかに動くと生きていることが分かりました。

路のバスまで時間があり、この日は小春日和の穏やかな日でしたので、吉野川に沿って紙漉きの里まで歩きました。予約もなしにいきなり作業中のお宅にお邪魔して、紙漉きの作業を見せていただきました。突然の訪問にも快く応じていただいた里の方に感謝です。
太古のブログ-二度目の大雪 11日の積雪から3日。午後2時半過ぎから、みぞれ交じりの雪が本降りとなり、見る間に庭も屋根も白一色に塗りつぶされた。


夕刻になって気温が更に下がって来ると、前回以上に積もりそうだ。止む気配はなく、もう5センチほどに降り積もっている。


めったに雪景色を見ることのない地域に住んでいると、雪が積もるだけで何かわくわくするものだが、こうも短時日に二度も大雪に見舞われると、雪国のみなさんのご苦労が実感できるような気になって来る。


前回は三連休の初日の降雪だったが、今回は平日の日中だけに、通勤・通学のみなさんの帰宅や明日の出勤、登校が大変になるだろうな。
昨日は葛木御歳神社の祈年祭で、珍しく朝早くからでかけました。

太古のブログ-御年神社祈年祭
先日の大雪もわずかにその名残を留めるのみの境内でしたが、祭典中の拝殿は凍えるほどに寒く、足がしびれる情けなさ。これも行と思えども、玉串奉奠に立ち上がるのがやっとでした。
祭典後に湯立ての神事があり、煮えたぎる湯につけた笹を、宮司が勢い良く頭上高くに掲げると、湯けむりが宙に軌跡を描いて、まさに厳寒の時ならではの神事です。
参拝者の頭上にも湯笹の雫が降り注がれ、今年1年の無病息災の祓いを受けました。
この神事に地元の俳句クラブの方々も参加され、長らく途絶えていた湯立神事の御歳神社での由緒を聞きながら熱心にメモを録っておられました。
いずれこの神事を採録した俳句作品が、休憩所の壁に披露されることだと思われます。
すべての神事が終わった後は、地元氏子役員さんとの直会。氏子総代のお一人は地元葛城の写真家として活躍されている方で、今回は御年神社に関わる季節の写真も休憩所に掲げられ、太古の写真も数枚参加させていただきました。
遠く石川県から神事に参加された方もあり、和やかな直会となりました。旧知の方がお供えされた瓶入の濁り酒は殊の外美味しいお酒で、寒さも忘れ、日中からかなり酔ってしまった太古でした。
太古のブログ-雪の朝

朝起きると窓の外がほんのりと明るい。ひょっとして…、とカーテンを開くと、一面の雪景色になっている。庭木にも雪が絡まり、まるで樹氷を見ているようだ。

以前に自宅で雪景色を見たのはいつだったか、思い出せないほど久しぶりの光景に見とれる。連休初日の朝ということもあるが、物音が降り積む雪に吸い取られたような静かな雪の朝となった。
今日は各地で節分の行事が行われています。そして、明日はもう立春。最近は暦通りに季節が推移しているようです。今日は、これまでの寒さがうそのような、風もない温かな好天の一日でした。

昨夜は吉野「金峯山寺」蔵王堂の節分会を観に出かけました。翌日3日の節分会には出かけたことがあるのですが、2日に行われる鬼火の祭典は、夜の7時頃から始まる行事です。日中は小春日和の好天でしたが、さすがに夜に入ると吉野山は冷え込んで来ます。寒さに震えながら夜の吉野を彷徨い、鬼火の祭典を待ちました。

節分会だというのに、祭典前の吉野山は人影が殆ど無く、ほんとに祭典があるのかと思いましたが、日が落ちてくると蔵王堂周辺には桜燈火が点され、点火と共にどこからともなく人が集い始めました。蔵王堂前ではふるまいの仙人ぜんざいが用意され、テントの中で大きな鍋から温かそうな湯気が立ち上がっていました。

まだ準備中かと思っていましたが、「ぜんざい、どうですか?」と声がかかり、たまたま一番の仙人ぜんざいをいただくことになりました。なんでも1000人分のぜんざいがふるまわれるそうです。「何度でもお替わりしてください」というお誘いでしたが、一椀で十分温まりました。

上千本、下千本から鬼が練り歩いて来ると聞いていましたので、鬼の練り歩きを見ようと蔵王堂前を離れましたが、なかなか鬼がやって来ません。じっと待っていると足元から寒さが這い上がってくるようで、賑やかになり始めた蔵王堂前に戻ると、大太鼓に合わせて、吉野千本つきと言われる餅つきが始まっていました。大勢の方が長い木を持ち臼の周りに集まって餅を搗いています。一般の参拝者も交替に搗かせてもらえるようでした。

そろそろ搗き上がる頃合いになると、一般の方から地元の方に交代し、大太鼓の連打と共にいくつもの長い木を一斉に頭上に掲げ、突き上がったばかりのお餅が湯気を上げて宙に踊ります。この餅は仙人ぜんざいに入れられ参拝者にふるまわれます。

さて、千本つきの餅もも搗き上がりましたが、鬼がなかなか現れません。祭典の司会者がマイクで「早よ来い~!」と呼びかけています。途中の何箇所かで鬼踊りを披露しながら蔵王堂を目指しています。周りの人の声に耳を傾けていると、どうやら毎回のことのようで、なかなか現れないのも演出なのかと思わせるユーモアがありました。

やがて、下千本から上がって来た鬼の松明が暗闇の中に見えてきました。青鬼、赤鬼の姿をした地元青年団のみなさんの鬼の登場です。
蔵王堂前に終結する鬼の後を追って境内に戻るとすでに大勢の人垣が出来ていて、肝心の鬼踊りを間近にすることはできませんでした。初めて参加するお祭りの進行がよく分からず、これなら蔵王堂前で鬼の到着を待っていた方が良かったと思ったときは、もう後の祭り。カメラを頭上に掲げて撮った鬼踊りの画像がこれです。


この金峯山寺の節分会には全国から追われた鬼がやってくるとされています。「福は~内!鬼も~内」と豆をまき、3日の蔵王堂内では集まった鬼の調伏式が執り行なわれ、鬼を改悛させて、鬼と一緒になって福豆まきが行われます。

鬼踊りが終わると、鬼火を模したファイアーダンスや迫力のある和太鼓の演奏が奉納されました。


吉野の山に響き渡る和太鼓の演奏に魅入られているうちに、最終のケーブルカーの時間ぎりぎりとなり、歩き仲間の方に急かされながら山を駆けるように下りました。辛うじて最終ケーブルに乗れ、最終一本前の特急に飛び乗って帰宅することができました。
運良く一本前の特急に乗れ、尺土で急行に乗り換え、古市駅で接続の準急に乗り換えたまでは良かったのですが、ホームに待っていた準急に座り込んだ途端、「ただいま人身事故発生のため、この電車の発車は見合わせています。発車の目処は立っていません」とのアナウンス。結局、帰宅時間は11時過ぎとなってしまいました。

金峯山寺節分会「鬼火の祭典」画像$太古のブログ-鬼踊り奉納
昨年、御所市の秋津遺跡から4世紀前半の特異な方形区画施設の建物と塀の遺構が検出され、八尾市のしおんじやま古墳から出土した囲形埴輪の実際の建物跡が初めて検出されたと話題になりました。


古墳の説明案内版
太古のブログ-しおんじやま古墳の埴輪説明


そのときから機会があれば、その埴輪の実物を見てみたいと思っていたところ、始めたばかりのツイッターで思いがけなく古墳の管理に携わっているNPOの方と接点が生まれ、年が明けた24日、思い出したように出かけて来ました。

復元された国史跡指定のしおんじやま古墳は、古墳時代中期(5世紀初め)のもので、全長160mの中河内では最も大きな前方後円墳です。

太古のブログ-しおんじやま古墳

整備された墳丘に上って高安山周辺の景観を独り占めで眺めていると、管理の方が巡回に回って来られ、なんとその方が「古墳学習館」の館長の福田和浩さんでした。「ひょっとして…」と、お互いに確認。ツイッターのつぶやきが縁で、アカウント@Pukuraccoさんその人に、意外に簡単にお目にかかることになりました。

囲形埴輪のレプリカは、古墳直ぐ西側にある「しおんじやま古墳学習館」に展示されていました。この埴輪が検出されたのは、古墳の西側に張り出した方形壇の谷部の水際から検出されたようです。

太古のブログ-しおんじやま古墳の埴輪出土箇所

囲形埴輪が検出された西側張り出し部の谷

塀で囲まれた施設内への入口部分の構造も明確に表現されていました。水の祭祀場を表した埴輪と説明には書かれていました。古墳時代の水祭を行う司祭者としての王権を象徴する貴重な埴輪の出土だったと思われます。祭祀を行う建物の周りを取り囲む塀の構造は、秋津遺跡の大型区画施設のミニチュアのようで,


レプリカでは建物の中央には導水施設が設けられ、塀の外へと排出する構造を埴輪から間近に見ることができました。


この埴輪の実物は、古墳から1キロほど南にある八尾市立歴史民俗資料館に保存されているとお聞きしていましたので、古墳学習館を出た後、訪ねてみることにしました。

資料館ではものを運ぶ昔の民具の企画展が開催されていて、残念ながら埴輪の実物展示は行われていませんでした。資料館の方にお聞きすると、全国的にも非常に貴重な埴輪だけに常設展でもレプリカを置いていて、そのレプリカを館外に貸し出す時には、実物を展示することがあるということでした。4月以降の特別展の開催を待つしかないようです。

今回、しおんじやま古墳を訪ねたことで、囲型埴輪の具体的な構造とその検出された場所を知ることができました。いずれにしても何らかの祭祀を行った塀に囲まれた埴輪であり、この埴輪を彷彿とさせる実際の秋津遺跡の塀に囲まれた特異な方形大型建物跡も、当時の権力者の祭祀施設と考えられるものだったのでしょうね。

資料の少ない古代史の空白の4世紀の葛城の地に、このような祭祀施設と考えられる大型建物跡が検出されたことは、古代豪族葛城氏よりも早くからこの地に有力な権力構造が出来上がっていたのか、あるいは葛城氏の台頭がさらに時代を遡ることになるのか、また大和王権とのかかわりの中で、古代葛城の地がどのような役割を担っていたのか、今後の解明が待たれます。

太古のブログ-囲形埴輪


秋津遺跡現地説明会でのパネル


心合寺山古墳の画像

国の重要無形民俗文化財に指定されている五條市大津町にある念仏寺陀々堂の「鬼走り」という年頭行事を初めて見て来ました。


太古のブログ-念仏寺陀々堂の鬼走り


山麓の風景ネットワークからご案内をいただき、かねてから一度見たいと思っていた伝統行事でしたので、いい機会になりました。

子ども鬼走りが30分ほどで終わると、福餅撒きが行われ、お昼の行事が終わりました。

ただ、この火の祭典が終了するのは夜の10時ということで、太古の場合は宿泊が必要となります。ご案内には、夕食懇親会の場所が宿泊施設になっていましたので、さっそく宿の予約を入れて、14日を楽しみにしていました。


念仏寺は、JR和歌山線五條駅の一つ和歌山寄りの「大和二見駅」が最寄駅のようですが、不案内な場所ですので、少し早めに着くことにしました。夕刻から始まる行事まで時間がありましたので、新町界隈を散策し、午後4時ごろには念仏寺に到着しました。


日本昔話に出てきそうな茅葺のお堂があり、このお堂が陀々堂と呼ばれる本日の舞台です。着いた時にはちょうど子ども鬼走りが始まっていました。


お聞きするところによると、阪合部郷の里人によって500年間途切れることなく続けられてきた伝統の行事を、次代に確実に継承してゆくために、6年前から子どもたちに鬼走り行事を体験してもらう昼行事が始められたそうです。


昼の鬼走りでは、本番のように松明に火を点けることはありませんが、実際に鬼面を着け、伝統行事の進行や所作が披露されていました。




宿は念仏寺からすぐのところにあり、火打窯という陶芸教室も併設された吉野川沿いの静かな宿です。その離れの独立部屋が用意されていました。アユ釣りの方々が利用される宿のようです。火打という地名が気になりパンフレットに目を通すと、宿がある火打町(ひぶりちょう)は、戦いのときののろしに由来する地名だと書かれていました。


しばらく部屋で寛いだ後、午後6時ごろには山麓の風景ネットワークの方々が集まり、大広間での夕食懇親会に合流。本日の鬼走りを主催する地元阪合部(さかいべ)地区の役員の方がお見えになり、伝統の行事を継承してゆく御苦労などをお聞きする。


鬼役を勤める方々は、祭典前1週間、別火精進と斎戒沐浴の厳しい行を行い、心身を浄めて祭典に臨むのが仕来りで、ご家族の方の気遣いも大変だと思われました。


最近では地元の方以上に外部からの参観者が増え、警備に伴う心労や財政難から行政の運営費助成も厳しくなっている現状の中で、500年の伝統を支える保存会のみなさんの御苦労と熱意をお聞きすることができました。


午後7時になると陀々堂内で息災の護摩供が始まり、境内で紫灯護摩が焚き上げられます。満点の星空となった夜空に噴き上がる炎が境内を赤々と染め、9時には鬼走りの松明が点火され、いよいよ本日メインの鬼走りが始まります。


鬼走りが始まるころには大勢の人が詰めかけ、茅葺屋根の堂も燃え上がらんばかりの火の勢いと桧の生葉が燃える煙で壮絶な光景となりました。


赤鬼、青鬼、茶鬼が重さ60キロにもなる燃え盛る松明を肩に担いで堂内を回ります。堂内は火の海となり、濛々とたち込める煙で、まるでお堂が炎上しているばかりの迫力でした。


降りかかる火の粉でやけどしないようにと、水天役(かわせ)が桶の水に浸した笹竹で何度も鬼の体を拭き払っていますが、鬼を勤める火天役(かって)の方々が本当にやけどしないかと観ていて気を揉むほどの荒業でした。1週間の精進潔斎、斎戒沐浴の行の賜物でしょうね。


翌朝、氷雨が降り始めた陀々堂を訪ねました。地元の方が朝から後片付けに精を出されていました。あの猛火に、天井も庇も燃え上がるのではと思われた茅葺屋根のお堂は、煙に燻されたように黒々と鎮まっていました。昨夜の火の海がまるで幻を見ていたような錯覚を覚えました。


後片付け中の地元の方に祭典に使用された鬼面を見せていただきました。祭典で使用される鬼面は昭和35年に製作された新面で、文明18年(1486年)の銘が墨書された旧面は五條市博物館に保存されているということでした。残念ながら、博物館は財政難で休館中となっていて、旧面に対面するのはまたの機会となりました。


念仏寺陀々堂の鬼走り画像