原文:意気須換得霊,乃有圓活之趣,所謂変転虚実也。
訳文:「意・気」は敏活に入れ替えるべし。それによって円滑な対応が可能な趣となる。これはいわゆる虚実変換だ。
「圓活」を手に入れるには「虚実変換」が不可欠になる。「虚実変換」には動作・手法によるものと目に見えない「内功」によるものがある。前者は手法変化の多いのが特徴とされる呉式太極拳の推手でよく見られ、後者は目に見えないだけに難易度・神秘性があるものの、各流派とも名人・達人が多数輩出されている。とはいえ、実際、手法を用いずに「内功」による「虚実変換」だけで相手を転けさせるのは筆者を含め、先人の伝記で目に触れる程度でそのような達人に出会ったことはない。一方、全く「内功」がなければ、手法による「虚実変換」に限りがあり、十分な威力発揮が出来ない。実際、世の中でよく見られるのはその両方のミックスだ。
では、「内功」による「虚実変換」とは何なのか。それを理解する前に先ず「内功」で言う虚実を理解する必要がある。虚と実は単位体積あたりの充填密度が異なると筆者は考える。つまり体における虚の部分と実の部分はその中身が同じではない。その違いは体の中を流れるもの、即ち「気」に由来している。言うまでもなく、上記充填密度は「気」の量を指す。
《太極拳論》の中に『左重則左虚,右重則右杳』がある。「重」とは相手から受けた負荷のことで、負荷を感じた部位を「虚」にすべきだとされるが、具体的にどういうふうにすれば「虚」になるかは言及されていない。無論、これは動作・手法によるものではない。体の中を流れる「気」を変化させて「虚」をつくるのだ。これが「意気変換」の意味だ。
「意気変換」が敏活でなければ、「虚」にするタイミングが遅れ、相手の負荷によるアンバランスが生じてしまう。一方、敏活を手に入れるには、「気」が滞ることなく全身を回る必要がある。それは高度な集中で「気」を集め、高度な「鬆」で通路を解放させ、更に心・意による発動・制御、陰陽による加速を通じてはじめて実現する。そのメカニズムは相手の負荷を感じてから始めるのではなく、「気」が滞ることなく体内を回る体で相手と接するのだ。相手の変化に自身のこうした「意気変換」が間に合えてはじめて「圓活」と言えるのだ。