陳純精翁と羅東との関係


  陳純精翁は1978(㍾11)年に台湾宜蘭市で生まれました、幼い時から相当な勉強家で9歳の時に漢学の私塾に通い、日本領台後は宜蘭国語伝習所に入学、みっちりと日本語を学んで、1897(㍾30)年に一番の好成績で同伝習所を終了されました。その後日本語に精通したことで、宜蘭地方法院の通訳官となり、数年後には羅東区長の拝命を受け、任期内での実績が認められて、引続き市町村改制後の初代羅東街長に任命されました、これからして翁の実力ぶりを伺わせるものがある。

 翁の30余年の街長任内は、数多くの事業を為し遂げた、中でも道路、水道、のインフラ整備を初め、学校、市場、水利、公共衛生の建設と改善は広く街民の信頼と支持を受けて、スムーズに運行されました。この輝かしい業績の外に、私が最も評価したいことは、営林所員山出張所を羅東へ移転させたことであった。
当時の羅東はまだ農村社会で、工商業も発達せず、一般民の生活は貧しかった、翁は兼ねてから街民の生活改善に想いをねっている所、意外にも員山出張所他所へ移転すべき消息を聞き、これをきっかけに広く街民に営林所員山出張所羅東移転の良さを呼びかけ、一方ねばり強く台湾総督府と交渉、その熱意が報いられて、1921(㍽10)年に員山出張所羅東移転の案が可決されて、一層翁の偉大さが評価されました。

 羅東出張所成立後は、羅東地区に大きなセンセイションを巻き起し、その急速な発展は羅東街のみならず、近隣の村里にも及んで、共に成果を味わうことは、衆目の一致する所である。しかし、翁の多忙な生活は決して安易ではなかった、1943(㍼18)年から思いもよらぬ、病魔に追われて離れず、その翌年一層厳重となって、遂にその年の2月19日に享年67歳で、不帰の客となり、とめともない多くの人々の痛みとなったのである。

 終戦後、地方有志者は羅東発展を 顧み、飲水思源の心情で、羅東中山公園に『陳純精翁記念はい』を建立、また新開設の環状道路も『純精路』と命名されて、永遠にその 功を称え、併せて歴史の出来ごとを、間近に後世に伝えることに供した。



本章は林清池様所着『太平山開発史』より。
6/12/08 3:57 PM