クリント・イーストウッドの新作「ヒアアフター」。ネタばれあり!!
つい先日、新宿バルト9で観てきました。日本のメディアではあまり話題にあがりませんがクリント・イーストウッドの最新作です。

あらすじ~サンフランシスコに住む元霊能者で肉体労働者のジョージ、臨死体験をしたパリ在住のジャーナリスト・マリー、兄を亡くしたロンドン在住の小学生マーカスの3人が、互いの問いかけに導かれるようにめぐり会い、生きる喜びを見出していく姿を描く。~
日本のメディアの反応を見ると「不思議な映画」や「観客によって解釈が違う」などと言った感想が観られます。果たしてそうでしょうか。僕は非常に明白なテーマを持った作品と思いました。
この物語は三人の人物のストーリーを、序盤は平行にそれぞれ描きます。ジョージは触れた相手に取り憑く亡霊が意図せず見えてしまう能力を持っています。マリーは津波によって体験した臨死体験についての本を書こうとしています。マーカスは交通事故で兄を亡くしもう一度逢いたいと切望しています。
この三人の共通項は亡霊に心を奪われている事です。
ここで考えたいのは、物語上で出てくる「亡霊」とは一体何を象徴しているのでしょうか。「亡霊」がモチーフになっている物語は古今東西たくさんあります。古くは日本の「四谷怪談」から最近ではクリストファー・ノーランの「インセプション」まで「亡霊」というモチーフは多くの作品で登場しています。
これらの物語や映画に共通するのは主人公が過去に後悔の念を持っているという事です。「インセプション」は先に死んだ妻が主人公の夢の中に現れて苦しめるという話でした。
つまり「亡霊」とは過去を具象化する存在と言っていいでしょう。亡霊=過去という事でみればこの物語は終始一貫しています。けっして「不思議な映画」だったり「観客によって解釈が違う」ことなど無いと思います。
この作品の序盤で、出会ったばかりの女性に取り憑く亡霊を見てしまったジョージが直後に彼女との関係が壊れてしまうのは何故でしょうか。彼女の過去を知ってしまったからです。
人と人は、ある一面しか知り合えないことで成り立つ関係が多いですよね。これは個人的な体験に置き換えて考えてみてください。僕自身、数年付き合った友人にも言えない過去がある訳です。またそれをこの人にはと思って話してしまい、相手を戸惑わせた事があります。
ジョージが彼女と上手くいかなくなったのは彼女を知りすぎたからです。また知られすぎた彼女ももうジョージとは上手くいかないんですね。そうなる事を知っていたからジョージは能力を隠そうとしたんです。
つまりこの作品の主題は許容出来ない人間の多面性です。また人間はそれをどうやって乗り越えるのか。
マーカスは先に死んだ兄にもう一度逢いたいと切望しています。そうやって過去にとらわれているので新しく出会った人を受け入れられないのです。
物語の終盤でマーカスと出会ったジョージは彼に取り憑いた兄の亡霊を、ある個人的な理由で見てあげます。この時ジョージは自らの言葉でマーカスに語りかけます。作中初めてジョージが能動的に行動した場面です。つまり未来にむけて行動した。ここで「過去見ることで未来を指し示す」という生産的な行為が行われます。
主題に対するこの映画の中の答えは、過去が生み出す人間の多面性よりも未来に起こりえる事を理解しようと努力する方が、むしろ人間関係は上手くいく。という事ではないでしょうか。だからタイトルがヒアアフターなのでしょう。
ジョージとマリーが出会うシーンで超現実的な力により未来が垣間見えるのはジョージがそういった事を理解したからではないでしょうか。ジョージの能力が逆転したんですね。
その他にこの作品の良い点をあげます。津波に巻き込まれたマリーが溺れるシーンで水中に光がさす瞬間、マーカスとその母親が抱き合った所で不意に雨が降る瞬間など感覚的に美しい場面が多い事です。イーストウッドならではの特徴的な演出ですね。
あとジョージを演じたマットデイモン。陰のある受動的なジョージという役を見事に好演しています。キャリアを重ねるごとに深みをましてくる俳優ですね。
この作品はクリント・イーストウッドのフィルモグラフィーと重ねてシネフィル的に評論する事も出来ましたが、若い人にも観てもらいたいので敢えてしませんでした。その為、飛躍した部分もあります。というよりも、とても個人的な部分で観てしまった。
僕にとってこの映画は「評価出来る映画」というよりも「好きな映画」ですね。

あらすじ~サンフランシスコに住む元霊能者で肉体労働者のジョージ、臨死体験をしたパリ在住のジャーナリスト・マリー、兄を亡くしたロンドン在住の小学生マーカスの3人が、互いの問いかけに導かれるようにめぐり会い、生きる喜びを見出していく姿を描く。~
日本のメディアの反応を見ると「不思議な映画」や「観客によって解釈が違う」などと言った感想が観られます。果たしてそうでしょうか。僕は非常に明白なテーマを持った作品と思いました。
この物語は三人の人物のストーリーを、序盤は平行にそれぞれ描きます。ジョージは触れた相手に取り憑く亡霊が意図せず見えてしまう能力を持っています。マリーは津波によって体験した臨死体験についての本を書こうとしています。マーカスは交通事故で兄を亡くしもう一度逢いたいと切望しています。
この三人の共通項は亡霊に心を奪われている事です。
ここで考えたいのは、物語上で出てくる「亡霊」とは一体何を象徴しているのでしょうか。「亡霊」がモチーフになっている物語は古今東西たくさんあります。古くは日本の「四谷怪談」から最近ではクリストファー・ノーランの「インセプション」まで「亡霊」というモチーフは多くの作品で登場しています。
これらの物語や映画に共通するのは主人公が過去に後悔の念を持っているという事です。「インセプション」は先に死んだ妻が主人公の夢の中に現れて苦しめるという話でした。
つまり「亡霊」とは過去を具象化する存在と言っていいでしょう。亡霊=過去という事でみればこの物語は終始一貫しています。けっして「不思議な映画」だったり「観客によって解釈が違う」ことなど無いと思います。
この作品の序盤で、出会ったばかりの女性に取り憑く亡霊を見てしまったジョージが直後に彼女との関係が壊れてしまうのは何故でしょうか。彼女の過去を知ってしまったからです。
人と人は、ある一面しか知り合えないことで成り立つ関係が多いですよね。これは個人的な体験に置き換えて考えてみてください。僕自身、数年付き合った友人にも言えない過去がある訳です。またそれをこの人にはと思って話してしまい、相手を戸惑わせた事があります。
ジョージが彼女と上手くいかなくなったのは彼女を知りすぎたからです。また知られすぎた彼女ももうジョージとは上手くいかないんですね。そうなる事を知っていたからジョージは能力を隠そうとしたんです。
つまりこの作品の主題は許容出来ない人間の多面性です。また人間はそれをどうやって乗り越えるのか。
マーカスは先に死んだ兄にもう一度逢いたいと切望しています。そうやって過去にとらわれているので新しく出会った人を受け入れられないのです。
物語の終盤でマーカスと出会ったジョージは彼に取り憑いた兄の亡霊を、ある個人的な理由で見てあげます。この時ジョージは自らの言葉でマーカスに語りかけます。作中初めてジョージが能動的に行動した場面です。つまり未来にむけて行動した。ここで「過去見ることで未来を指し示す」という生産的な行為が行われます。
主題に対するこの映画の中の答えは、過去が生み出す人間の多面性よりも未来に起こりえる事を理解しようと努力する方が、むしろ人間関係は上手くいく。という事ではないでしょうか。だからタイトルがヒアアフターなのでしょう。
ジョージとマリーが出会うシーンで超現実的な力により未来が垣間見えるのはジョージがそういった事を理解したからではないでしょうか。ジョージの能力が逆転したんですね。
その他にこの作品の良い点をあげます。津波に巻き込まれたマリーが溺れるシーンで水中に光がさす瞬間、マーカスとその母親が抱き合った所で不意に雨が降る瞬間など感覚的に美しい場面が多い事です。イーストウッドならではの特徴的な演出ですね。
あとジョージを演じたマットデイモン。陰のある受動的なジョージという役を見事に好演しています。キャリアを重ねるごとに深みをましてくる俳優ですね。
この作品はクリント・イーストウッドのフィルモグラフィーと重ねてシネフィル的に評論する事も出来ましたが、若い人にも観てもらいたいので敢えてしませんでした。その為、飛躍した部分もあります。というよりも、とても個人的な部分で観てしまった。
僕にとってこの映画は「評価出来る映画」というよりも「好きな映画」ですね。
「ソーシャル・ネットワーク」は何故アカデミー作品賞をとれなかったのか?
こんにちは、二回目のブログ更新です。今回紹介するのはデヴィット・フィンチャー監督の新作「ソーシャル・ネットワーク」です。

先日、アカデミー賞が発表されましたね。「ソーシャル・ネットワーク」は作品賞の最有力候補と言われながら、惜しくも「英国王のスピーチ」にその座を渡してしまいました。そういった観点からもこの作品を批評していきたいと思います。
あらすじ~2003年。ハーバード大学2年生のマーク・ザッカーバーグ(ジェシー・アイゼンバーグ)は、高校時代から腕利きのハッカーだったが、人付き合いに関してはおくてで、今もガールフレンドのエリカ(ルーニー・マーラ)を怒らせ別れてきたところだ。やけをおこした彼は、ハーバード中の寮の名簿をハッキング、女子学生たちの写真を並べてランク付けするサイト作りに没頭していた。このサイト“フェイスマッシュ”はたった2時間で22,000アクセスに達し、マークの名前はハーバード中に知れ渡る。これが利用者全世界5億人以上のSNS“フェイスブック”の始まりであった……。2004年。資産家の家に育ち、次期オリンピックにも出場が期待されるボート部のトップ、双子のウィンクルボス兄弟は憤慨していた。自分たちが企画した学内男女のインターネット上の出会いの場“ハーバードコネクション” 立ち上げのためマークに協力を要請していたが、彼は“フェイスブック”を立ち上げてしまったのだ。~
まず最初に言っておかなければならないのは、この作品は実在のfacebookを作った男であるマーク・ザッカーバーグの伝記映画では無いという事です。実在のマーク・ザッカーバーグがこの作品で描かれるような人物なのか非常に疑わしい。実に創作部分が多い脚本だと思います。劇中の台詞を引用しますが「85%は誇張、15%は嘘」という事でしょう。
ではfacebookや多くのSNSについての映画なのか。それも違うと思います。劇中で実際にfacebookを操作するシーンは極端に少ないです。意図的に軽く描かれています。
では一体何についての映画なのか。その主題はシェイク・スピアです。一人の男の栄光と挫折、勃興と凋落を描いた映画です。物語だけ取り出せば、今まで数多あった物です。メディア王の栄光と挫折という意味では、たくさんの批評家が指摘しているように「市民ケーン」に重なる所が多くあります。ではどういった所がこの映画の特徴なのでしょうか。
この映画は主人公マーク・ザッカーバーグをめぐる人々の会話劇を中心に進んでいきます。そして様々なシーンが重層的な意味をなしている。その中で浮き彫りになるのはマークのコミュニケーション能力の不能です。マークは彼女、友達、同僚との会話の中で論旨は容易に理解出来るものの、相手の感情が理解できない。マークはアスペルガー症候群なのではないかと様々な人が指摘しています。なので観客はマークにとても共感しずらい。
最初のシーンはマークがビアホールでボストン大学の彼女とビールを飲んでいます。彼女が「この後試験がある。」と言うとマークは「ボストン大なら勉強しなくてもいいではないか。」と言ってしまう。この後、彼女は当然怒り出します。マークは論旨にあった事を言っただけで、相手が何故怒っているのか解らない。
ここで成り立つ一つの推論は、我々は普段から他者とコミュニケーションをとる時に、論旨と相手の感情を別個の物として捉えているという事です。どんなに論旨にそって成り立つ推論もそれを相手に伝えたら傷つく事もある。この事を我々は解っているようで解っていない。我々の身の回りでよく起こるコミュニケーションの失敗は多くが、論旨によって成り立つ推論と人間的感情の同一化から成り立ってはいないでしょうか。
そしてこの映画で特筆すべきはラストシーンでしょう。マークの野心の中に個人的動機をうまく内包させています。このクリック音が心の叫びに聞こえる。ファーストシーンからの円環構造となっているのも演出が上手い。
ただ、苦言を呈すると肝心のfacebookについての描き方が非常に希薄であります。もう少し詳しく描くことで、現代的なコミュニケーション不全のような物をテーマにしていれば同時代性により力強い作品となりえたしょう。アカデミー作品賞をとった「英国王のスピーチ」のほうが、ほとんど同じテーマを扱いながらその突破を描いているので力強く見えました。
とはいえ、映画史上屈指の名作「市民ケーン」に果敢に挑み、ここのまでの作品を作り上げた事自体は素晴らしい。デヴィット・フィンチャーのフィルモグラフィーでも「ファイトクラブ」に並ぶ傑作だと思いました。

先日、アカデミー賞が発表されましたね。「ソーシャル・ネットワーク」は作品賞の最有力候補と言われながら、惜しくも「英国王のスピーチ」にその座を渡してしまいました。そういった観点からもこの作品を批評していきたいと思います。
あらすじ~2003年。ハーバード大学2年生のマーク・ザッカーバーグ(ジェシー・アイゼンバーグ)は、高校時代から腕利きのハッカーだったが、人付き合いに関してはおくてで、今もガールフレンドのエリカ(ルーニー・マーラ)を怒らせ別れてきたところだ。やけをおこした彼は、ハーバード中の寮の名簿をハッキング、女子学生たちの写真を並べてランク付けするサイト作りに没頭していた。このサイト“フェイスマッシュ”はたった2時間で22,000アクセスに達し、マークの名前はハーバード中に知れ渡る。これが利用者全世界5億人以上のSNS“フェイスブック”の始まりであった……。2004年。資産家の家に育ち、次期オリンピックにも出場が期待されるボート部のトップ、双子のウィンクルボス兄弟は憤慨していた。自分たちが企画した学内男女のインターネット上の出会いの場“ハーバードコネクション” 立ち上げのためマークに協力を要請していたが、彼は“フェイスブック”を立ち上げてしまったのだ。~
まず最初に言っておかなければならないのは、この作品は実在のfacebookを作った男であるマーク・ザッカーバーグの伝記映画では無いという事です。実在のマーク・ザッカーバーグがこの作品で描かれるような人物なのか非常に疑わしい。実に創作部分が多い脚本だと思います。劇中の台詞を引用しますが「85%は誇張、15%は嘘」という事でしょう。
ではfacebookや多くのSNSについての映画なのか。それも違うと思います。劇中で実際にfacebookを操作するシーンは極端に少ないです。意図的に軽く描かれています。
では一体何についての映画なのか。その主題はシェイク・スピアです。一人の男の栄光と挫折、勃興と凋落を描いた映画です。物語だけ取り出せば、今まで数多あった物です。メディア王の栄光と挫折という意味では、たくさんの批評家が指摘しているように「市民ケーン」に重なる所が多くあります。ではどういった所がこの映画の特徴なのでしょうか。
この映画は主人公マーク・ザッカーバーグをめぐる人々の会話劇を中心に進んでいきます。そして様々なシーンが重層的な意味をなしている。その中で浮き彫りになるのはマークのコミュニケーション能力の不能です。マークは彼女、友達、同僚との会話の中で論旨は容易に理解出来るものの、相手の感情が理解できない。マークはアスペルガー症候群なのではないかと様々な人が指摘しています。なので観客はマークにとても共感しずらい。
最初のシーンはマークがビアホールでボストン大学の彼女とビールを飲んでいます。彼女が「この後試験がある。」と言うとマークは「ボストン大なら勉強しなくてもいいではないか。」と言ってしまう。この後、彼女は当然怒り出します。マークは論旨にあった事を言っただけで、相手が何故怒っているのか解らない。
ここで成り立つ一つの推論は、我々は普段から他者とコミュニケーションをとる時に、論旨と相手の感情を別個の物として捉えているという事です。どんなに論旨にそって成り立つ推論もそれを相手に伝えたら傷つく事もある。この事を我々は解っているようで解っていない。我々の身の回りでよく起こるコミュニケーションの失敗は多くが、論旨によって成り立つ推論と人間的感情の同一化から成り立ってはいないでしょうか。
そしてこの映画で特筆すべきはラストシーンでしょう。マークの野心の中に個人的動機をうまく内包させています。このクリック音が心の叫びに聞こえる。ファーストシーンからの円環構造となっているのも演出が上手い。
ただ、苦言を呈すると肝心のfacebookについての描き方が非常に希薄であります。もう少し詳しく描くことで、現代的なコミュニケーション不全のような物をテーマにしていれば同時代性により力強い作品となりえたしょう。アカデミー作品賞をとった「英国王のスピーチ」のほうが、ほとんど同じテーマを扱いながらその突破を描いているので力強く見えました。
とはいえ、映画史上屈指の名作「市民ケーン」に果敢に挑み、ここのまでの作品を作り上げた事自体は素晴らしい。デヴィット・フィンチャーのフィルモグラフィーでも「ファイトクラブ」に並ぶ傑作だと思いました。
2011年、最初に観た映画は「キックアス」。
1月末に閉館直前の渋谷シネセゾンで「キックアス」を観てきました。映画の日という事もあって満員でした。以下あらすじ~
冴えない高校生デイヴ・リゼウスキはコミックのスーパーヒーローに憧れるオタク少年。そんな彼は自分で本物のヒーローになろうと思い、ネットで買ったスーツを着て活動を開始する。キックアスと名乗り始めた彼は学校一の美少女ケイティに頼まれ麻薬の売人のアジト乗り込んだものの袋だたきにあう。そこに自身と同じようにヒーローコスチュームを着たヒットガールが現れる。~
この作品では主にヒーローが4人登場します。主人公の冴えないオタク青年キックアス、妻の復讐に燃えるビッグ・ダディ、ビックダディの娘ヒットガール、マフィアの息子レッドミスト。彼らは既存のスーパーヒーロー(スーパーマン、スパイダーマンなど)と違い超能力をいっさい持ちません。(バッドマン、アイアンマンも直接的な超能力を持ちませんが超金持ちの御曹司と言う設定がある種、間接的な超能力になっています。)
今までのアメリカンコミックスやそれらの映画化では超現実的能力を持った主人公の苦悩を描く事によって体系化された社会、つまり民主主義の為政の成功と挫折が描かれてきました。では主人公が超現実的能力を持たない「キックアス」では何が描かれたのでしょうか。大きなテーマが二つあると思います。
一つ目は、人間が善悪二つの価値基準の中で善なる選択をいかによって為すべきか。またそれは実現出来るのか、ということでしょう。
主人公デイブ扮するキッックアスが英雄的行為によって善なる行為をすればするほど、自己に分裂を抱えて苦悩します。それは善悪では推し量れない人間の感情を、英雄的行為という理念によって限定した為だと思われます。
自己内分裂は人間的不能(男性的不能)を生み出します。デイブが恋人になるケイティにゲイと間違われる事が象徴しています。かつてスーパーマンやバットマンでも主人公の性的不能が描かれてきました。
二つ目は古今東西、広義のヒーロー物の映画、漫画、アニメに対する批評です。私達が子供の頃に観てきたアニメ、特撮では悪者はヒーローにやっつけられると画面から姿を消してしまいました。しかし「キックアス」ではヒットガールが薙刀で斬りつけて分裂した敵の肢体や拷問されてミンチになった体を積極的に画面に映します。
これは反モラルとしてこの作品に対する批判を呼びました(映画館で隣に座っていた女性がえづいていました。)。しかしこれらの描写は今までのヒーロー物の中にモラルの美名の下、隠されていた真実です。それをアンチテーゼに落ち入らず過去作品の古典的なモチーフを踏襲した上で成し遂げた事が素晴らしい。制作者側の尊敬と愛に満ちています。
この物語は二つのテーマを投げかけた所である人物の復讐劇へと華麗に転換していきます。そこで善悪を超えた部分で突き動かされる人間を描く事によって二つのテーマを同時に回収します。
この他にもヒットガールによる派手なアクションシーンとビッグ・ダディによるリアリズムなアクションシーンを対比させている事で映画におけるアクションシーンの即物的な感動の本質を描いている点。
キックアスとビックダディがマフィアに捕まり拷問されるシーンがネット中継されたり、キックアスによる自警行為がyou tubeにあげられたりなど個人メディア革命以降の世界を見据えている点で演出が巧みです。
しかし今まで挙げてきたような意味的なカタルシスよりも、この映画は斬新なアクションシーン、(FPS表現、両手を使って空中でのリロード!!)、会話劇のテンポの良さ、コミカルな演出にこそカタルシスを着地させています。それがこれだけのテーマを打ち出しながら説教臭くならない理由でしょう。
結論を言えば傑作だと思いました。アメコミ映画の新たな金字塔になったのではないでしょうか。
ラストカットにはある伝説的アメコミキャラの台詞の引用があります。続編観たい!!!
監督のマシューボーンの次回作はX-MENの続編らしいです。こちらも期待。
冴えない高校生デイヴ・リゼウスキはコミックのスーパーヒーローに憧れるオタク少年。そんな彼は自分で本物のヒーローになろうと思い、ネットで買ったスーツを着て活動を開始する。キックアスと名乗り始めた彼は学校一の美少女ケイティに頼まれ麻薬の売人のアジト乗り込んだものの袋だたきにあう。そこに自身と同じようにヒーローコスチュームを着たヒットガールが現れる。~
この作品では主にヒーローが4人登場します。主人公の冴えないオタク青年キックアス、妻の復讐に燃えるビッグ・ダディ、ビックダディの娘ヒットガール、マフィアの息子レッドミスト。彼らは既存のスーパーヒーロー(スーパーマン、スパイダーマンなど)と違い超能力をいっさい持ちません。(バッドマン、アイアンマンも直接的な超能力を持ちませんが超金持ちの御曹司と言う設定がある種、間接的な超能力になっています。)
今までのアメリカンコミックスやそれらの映画化では超現実的能力を持った主人公の苦悩を描く事によって体系化された社会、つまり民主主義の為政の成功と挫折が描かれてきました。では主人公が超現実的能力を持たない「キックアス」では何が描かれたのでしょうか。大きなテーマが二つあると思います。
一つ目は、人間が善悪二つの価値基準の中で善なる選択をいかによって為すべきか。またそれは実現出来るのか、ということでしょう。
主人公デイブ扮するキッックアスが英雄的行為によって善なる行為をすればするほど、自己に分裂を抱えて苦悩します。それは善悪では推し量れない人間の感情を、英雄的行為という理念によって限定した為だと思われます。
自己内分裂は人間的不能(男性的不能)を生み出します。デイブが恋人になるケイティにゲイと間違われる事が象徴しています。かつてスーパーマンやバットマンでも主人公の性的不能が描かれてきました。
二つ目は古今東西、広義のヒーロー物の映画、漫画、アニメに対する批評です。私達が子供の頃に観てきたアニメ、特撮では悪者はヒーローにやっつけられると画面から姿を消してしまいました。しかし「キックアス」ではヒットガールが薙刀で斬りつけて分裂した敵の肢体や拷問されてミンチになった体を積極的に画面に映します。
これは反モラルとしてこの作品に対する批判を呼びました(映画館で隣に座っていた女性がえづいていました。)。しかしこれらの描写は今までのヒーロー物の中にモラルの美名の下、隠されていた真実です。それをアンチテーゼに落ち入らず過去作品の古典的なモチーフを踏襲した上で成し遂げた事が素晴らしい。制作者側の尊敬と愛に満ちています。
この物語は二つのテーマを投げかけた所である人物の復讐劇へと華麗に転換していきます。そこで善悪を超えた部分で突き動かされる人間を描く事によって二つのテーマを同時に回収します。
この他にもヒットガールによる派手なアクションシーンとビッグ・ダディによるリアリズムなアクションシーンを対比させている事で映画におけるアクションシーンの即物的な感動の本質を描いている点。
キックアスとビックダディがマフィアに捕まり拷問されるシーンがネット中継されたり、キックアスによる自警行為がyou tubeにあげられたりなど個人メディア革命以降の世界を見据えている点で演出が巧みです。
しかし今まで挙げてきたような意味的なカタルシスよりも、この映画は斬新なアクションシーン、(FPS表現、両手を使って空中でのリロード!!)、会話劇のテンポの良さ、コミカルな演出にこそカタルシスを着地させています。それがこれだけのテーマを打ち出しながら説教臭くならない理由でしょう。
結論を言えば傑作だと思いました。アメコミ映画の新たな金字塔になったのではないでしょうか。
ラストカットにはある伝説的アメコミキャラの台詞の引用があります。続編観たい!!!
監督のマシューボーンの次回作はX-MENの続編らしいです。こちらも期待。

