一日の終わりに

一日の終わりに

かつては読んだ本、聴いた音楽、観た映画について書いていたブログです。

Special Recommend

宮下誠『越境する天使 パウル・クレー』

「力なき者がそれでも生き続けるための「悪意と戦略」。
20世紀の暴力に絵筆で挑んだ画家のぎりぎりの闘いを追跡した《批評家》が、私たちに宛てた/仕掛けた最期 の《手紙》。

*

此岸でわたしを捕まえることはできない。
わたしは好んで死者たちと、
未だ生まれざるものとの領域に住みついているから。
----パウル・クレー

*

クレーの2つの眼差しは、
片方で、混迷を極めてゆく世界を、
或いはいよいよ生き辛くなってゆく世界を、
悪意に満ちた眼差しで見つめながら、
もう一方の眼差しで、森羅万象の不思議を見詰め、考察し、
深い哲学的な思想で再解釈し、イメージとして残そうとした。
クレーの絵画世界は、その記録である。

(本文より)」
※出版社からの内容紹介です。Amazon.comより引用しました。
越境する天使 パウル・クレー/宮下 誠
¥2,940
Amazon.co.jp


暑い日が続いている。天気も急変することが多く、夏ってこんなだったっけと首を捻る毎日。かつて想像していた未来、21世紀というものは、キノコのような形をした近未来の建物に住んで、空飛ぶ車で移動して労働からも解放され、宇宙旅行にも行けて、好きなことして生きられる世界だった。けど、そんな未来は実現せず、なんというか、息苦しい世界だ。そして、今日は誕生日。仕事帰りに本屋に寄って、読みたいと思うものがあったら買って帰ろうと書棚を見渡していた。家には読んでいない本が山積みになっているのにもかかわらず。そんな中で、平野さんの『死刑について』という本が目に留まった。僕は特定の作家の小説を読むと言うことはしないのだけれども、平野さんの小説は比較的読んでいて、エッセイに関しても手にし、分人の考えなど共感するところが多かった。その根底に勝手ながら、死をどう捉えるかという問題意識があるように感じられ、僕もそれを求めているところもあったためだと思う。そんなこんなで、『死刑について』という本を読んだ。今その直後、読後感というものを残しておこうと思って書き始めている。

まず、死刑をめぐる問題点の整理や、死刑存置派から廃止派への心情の変化を交えた話はとても興味深く、なるほどそういう視点から死刑を考えるのかと、とても勉強になった。被害者へのケアが足りていないことや、加害者を社会の問題として捉える視点(死刑を排除と考えること)、死刑の決定の仕方のおかしさなど、もっともだと思った。

僕自身、死刑に対する立場は、自分との関わりの度合いや立ち位置によって変わってしまうだろうというのが率直なところだ。そもそも死刑がある以上、ないことを前提に考えるのも難しい。それに、命を奪われたら命を持って償うと言う単純な考えを全くとんちんかんの大間違えと言い切れないところもあり、自分自身が全面的にどちらの立場と振り切れないところがある。

僕自身、自分の生い立ちが恵まれたものでもない。が、変わろうと努力をし、自分自身で自分を育ててきた。そうした部分も影響していると思うけれど、環境のせいで犯罪をしてしまったという考え方は、少々現実感のない話に感じてしまうところがある。それを放置し、生み出してしまった社会の問題と捉えるという視点は、高貴すぎるのだ。そんなに人間は愚かではないし、もっと欲深く、生々しい存在だと思う。社会が引き起こした問題という時の社会は、そんなにも責任を負うような成熟したものだろうかと思ってしまう。少なくとも僕にとって社会はずっと無関心で、よくわからないルールを押し当ててくる厄介な存在だった。父親が役所のルールもよく把握しない中で個人で仕事をしていて、そのせいで支払いが滞ったせいでいろいろな制約が課されたり、保険証が失効したり、失効しますよと脅されたり、光熱費の支払いが滞って止まることとかもあった。それは親父のだらしなさであったけれど、社会に参画することにおいて、色々とベースになる部分で線が引かれ、普通という環境に身を置けること自体が、僕にとって凄いことと感じていた。そんな立場からしたら、社会は参画する要件を課す存在で、弱きを助けるようなものではなかった。だからこそ、そんな必死で引っかかるように生きてきた環境の人間が起こした犯罪を、社会の問題だなんて捉えるわけがないと感じてしまう。より良い社会を目指すなんて綺麗事にしか思えないところがある。

そもそも、犯罪を個人に帰する問題ではなく社会の問題とした場合、人はその程度の存在なんだろうか。自分自身のケースを照らしても、自ら変わろうとし、歩み出そうともしなかった人が、最終的に望ましくない選択をしても、最後まで個人の問題ではないと扱われたとき、その人はどんな存在と言えるのだろうか。負の連鎖を生み出した社会の象徴なのだろうか。それこそ、ずっとその人は個人ではない存在になっているのではないだろうか。そうならないように変えられるのも個人であって、それを放棄した個人に咎めはないのか。社会が放棄したと、個人を放棄してよいのだろうかと思ってしまった。生い立ちに因果関係を認めることも恣意的な判断と言えないだろうか。犯罪を犯罪としてジャッジする時に、その背景を紡ぐことの妥当性や正当性は専門外だからわからない。けど、ライフヒストリーほど、あやふやなものもなく、犯罪の背景として見たらそれとなく見えるストーリーができてしまう気もする。なんというか、自分自身で臍の緒を切らずに身を置き続けていた環境が結果として他人を死に至らしめる行為に至ったとしても、個人の問題に帰することがないとなるならば、アーレントのような悪の陳腐さじゃないけれど、明確な対象が設定できないとするならば、そもそも裁判という場は、何を審議する場なのだろう。

死という問題に対する考えと、刑としての死ともまた違う位相に感じている。社会という位相で捉えられるほど、犯罪というものは社会的な象徴なのだろうか。僕は死刑を廃止する、存置すると言う立場の発生は、廃止という視点によって生まれたものだと思うが、他の選択肢はないのだろうか。死刑があっても、それが選択されず、被害者や遺族にとって、妥当な量刑が加害者側に与えられる状況があればいい話なのではないだろうか。

と、ちょっと書き途中で文章荒れまくってると思うけど、一旦ここで。

先週は原稿の締め切りが重なってしまい、身動きの取りづらい状況だった。にもかかわらず、子どもが足の骨を痛め、なんとひびが入ってしまい、病院やら当面履くためのワンサイズ大きい靴を買うやら、イレギュラーなことに時間を取られてしまっていた。毎朝の登校もかなりゆっくりで時間がかかり、足が痛いというので抱っこするなどして、私生活も大変だった。お医者さん曰く、子どもの治りは早い。1週間である程度治りますよと。そして、その1週間が昨日で、診察を受けたらある程度治っていて、簡易的なギブスが外れ、テーピングに切り替えましょうとなった。ただ完治とはいかず、また来週レントゲンで治り具合を見ましょうとなった。かれこれ3週間コースだ。なんでひびが入ったかと言うと、これも馬鹿な話で、ふざけて妹をおんぶしようとしたさいに、親指をグギッとやってしまったということだった。負傷した日の夜、寝る前に右足の親指が腫れ上がり冷やすも、翌朝青くなっていて、これはひびか、最悪折れてるかもとなり、病院へ連れていったのだった。やれやれだ。

そんな忙しさも乗り越えて、ようやく束の間の休息といえばいいのだろうか、直近でイベントやら講演会やら人前で話す系のものや、原稿の締切りもない、実に半年ぶりの状況になった。ずっとジョギングしていたようだったため、4月頭は体調を崩し気味で、そこから良くなったり悪くなったりを繰り返しつつ、なんとかやりきったのだった。ようやく休息が訪れたと思った瞬間、過去に流れたと思っていた仕事の話が、ドンピシャのタイミングで来てしまった。これ、なぜかよくわからないのだけど、過去に何度も同じことがあり、誰か僕のスケジュールを把握しているのではないかと勘繰るほど。またかと、なかなか落ち着かせてもらえないことになっている。

4月、5月というのは、あとになっていつも思うのだけど、僕にとっては、どうやらとにかく早く過ぎさって欲しい時期のようなのだ。だから、忙しくしていることで、あれこれ考えなくて済むようにしているようなのだ。4月頭は父親の命日、5月の終わりには恩師、そして、高校時代の同級生の命日がある。時系列で言えば、恩師の死、これはこのブログの結構最初の方に遡る時期のことで享年46歳、次は父親で前職に就いた頃のことで享年61歳、そして、同級生は現職に着任した年で享年36歳、いずれも若くして亡くなっている。

恩師との唐突な別れは、今の自分の形成に多大な影響を与えている。長らく一方的に恩師に語りかけ続けては、研究者としての道を諦めずにいること、どんなに苦しくても模索してきた。就職が叶った今も、それに浴することなく、なんでこの道に進もうと思ったのかを日々考えながら生きている。だから忙しい日々を送ってしまう。絶対に負けないという強い気持ちで臨んでいる。そして、父の死。それは自分が本当に死ぬ存在であることを、死からは決して逃れる事はできず、そして圧倒的なものであって全てを飲み込んでしまうことを教えてもらった。癌だった。闘病中、とてもいつか治るなんてことや、またやりたいことがやれるとか、そんなことはとても言えなかった。死のフェーズに入ってしまったら、覚悟しないといけないということを身をもって知った。そして、同級生の死。今も脳裏に焼きついている光景がある。親友というわけではなかったが、いつも会えば笑って話す関係の奴だった。一番記憶に残っているのは、高校に教育実習で戻ってきた時のこと。校内の自販機でコーラか何かを買おうとしたら、自販機の補充の仕事を彼がやっていたのだ。お互い、おーなんでここにいるの!となった。僕自身、浪人というかフリーターを挟んで進学が遅かったこともあり、彼との社会的な時間差が生んだ奇跡でもあった。自販機は売り切れってなっていても、最後の一本は残っててそれは冷えてるんだということを教えてもらった。その日、その時間に出身の高校で2人が会う確率はいかばかりだろうか。またな!と別れた。そして、次に会ったのは棺の中だった。告別式には高校の同級生の車に乗せてもらった。道中、靴がないと言うからデパートで靴を買ったせいで、到着時間がかなり遅くなってしまった。ほとんど終わりの状況で、会場に来ていた同級生たちと、簡単におっ久しぶりと挨拶を交わしつつ、棺に向かった。すると、そこにはご家族だけがいた。奥さんと小さな2人の子どもが。子どもが泣きながら、お父さんなんで動かないのと叫んでいた。その光景を目の当たりにしてしまった時、身体中を悲しみが突き抜けていった。立ち止まったまま、進めなかった。奥さんがそんな僕らに気づいてくれて、どうぞどうぞ声かけてやってくださいと。僕らは高校時代の友人ですと伝え、お線香をあげた。奥さんは泣いている子どもを抱き抱えながら、来てくださってありがとうございますと気丈に振る舞ってくれた。自分自身、子どもが生まれてまもない時期でもあったことため、この状況がいつ自分に起こり得るのか、その恐怖とそうなってはいけないんだと、こんな悲しみには死んでも耐えられないと痛感した。

僕にとって、忙しく生きることの背景には、これらの死がある。生きられること、それは当たり前でない。だから、できることを、やりたいと思うことをやる。そして、楽しみながらやる。それがすごく大事だと思っている。何かをやることによって、僕は恩師たちに向けて、こんなことやってるんだというのを伝えられるようにと思って取り組んでいる。そんな風なことを改めて思い出した。