暑い日が続いている。天気も急変することが多く、夏ってこんなだったっけと首を捻る毎日。かつて想像していた未来、21世紀というものは、キノコのような形をした近未来の建物に住んで、空飛ぶ車で移動して労働からも解放され、宇宙旅行にも行けて、好きなことして生きられる世界だった。けど、そんな未来は実現せず、なんというか、息苦しい世界だ。そして、今日は誕生日。仕事帰りに本屋に寄って、読みたいと思うものがあったら買って帰ろうと書棚を見渡していた。家には読んでいない本が山積みになっているのにもかかわらず。そんな中で、平野さんの『死刑について』という本が目に留まった。僕は特定の作家の小説を読むと言うことはしないのだけれども、平野さんの小説は比較的読んでいて、エッセイに関しても手にし、分人の考えなど共感するところが多かった。その根底に勝手ながら、死をどう捉えるかという問題意識があるように感じられ、僕もそれを求めているところもあったためだと思う。そんなこんなで、『死刑について』という本を読んだ。今その直後、読後感というものを残しておこうと思って書き始めている。
まず、死刑をめぐる問題点の整理や、死刑存置派から廃止派への心情の変化を交えた話はとても興味深く、なるほどそういう視点から死刑を考えるのかと、とても勉強になった。被害者へのケアが足りていないことや、加害者を社会の問題として捉える視点(死刑を排除と考えること)、死刑の決定の仕方のおかしさなど、もっともだと思った。
僕自身、死刑に対する立場は、自分との関わりの度合いや立ち位置によって変わってしまうだろうというのが率直なところだ。そもそも死刑がある以上、ないことを前提に考えるのも難しい。それに、命を奪われたら命を持って償うと言う単純な考えを全くとんちんかんの大間違えと言い切れないところもあり、自分自身が全面的にどちらの立場と振り切れないところがある。
僕自身、自分の生い立ちが恵まれたものでもない。が、変わろうと努力をし、自分自身で自分を育ててきた。そうした部分も影響していると思うけれど、環境のせいで犯罪をしてしまったという考え方は、少々現実感のない話に感じてしまうところがある。それを放置し、生み出してしまった社会の問題と捉えるという視点は、高貴すぎるのだ。そんなに人間は愚かではないし、もっと欲深く、生々しい存在だと思う。社会が引き起こした問題という時の社会は、そんなにも責任を負うような成熟したものだろうかと思ってしまう。少なくとも僕にとって社会はずっと無関心で、よくわからないルールを押し当ててくる厄介な存在だった。父親が役所のルールもよく把握しない中で個人で仕事をしていて、そのせいで支払いが滞ったせいでいろいろな制約が課されたり、保険証が失効したり、失効しますよと脅されたり、光熱費の支払いが滞って止まることとかもあった。それは親父のだらしなさであったけれど、社会に参画することにおいて、色々とベースになる部分で線が引かれ、普通という環境に身を置けること自体が、僕にとって凄いことと感じていた。そんな立場からしたら、社会は参画する要件を課す存在で、弱きを助けるようなものではなかった。だからこそ、そんな必死で引っかかるように生きてきた環境の人間が起こした犯罪を、社会の問題だなんて捉えるわけがないと感じてしまう。より良い社会を目指すなんて綺麗事にしか思えないところがある。
そもそも、犯罪を個人に帰する問題ではなく社会の問題とした場合、人はその程度の存在なんだろうか。自分自身のケースを照らしても、自ら変わろうとし、歩み出そうともしなかった人が、最終的に望ましくない選択をしても、最後まで個人の問題ではないと扱われたとき、その人はどんな存在と言えるのだろうか。負の連鎖を生み出した社会の象徴なのだろうか。それこそ、ずっとその人は個人ではない存在になっているのではないだろうか。そうならないように変えられるのも個人であって、それを放棄した個人に咎めはないのか。社会が放棄したと、個人を放棄してよいのだろうかと思ってしまった。生い立ちに因果関係を認めることも恣意的な判断と言えないだろうか。犯罪を犯罪としてジャッジする時に、その背景を紡ぐことの妥当性や正当性は専門外だからわからない。けど、ライフヒストリーほど、あやふやなものもなく、犯罪の背景として見たらそれとなく見えるストーリーができてしまう気もする。なんというか、自分自身で臍の緒を切らずに身を置き続けていた環境が結果として他人を死に至らしめる行為に至ったとしても、個人の問題に帰することがないとなるならば、アーレントのような悪の陳腐さじゃないけれど、明確な対象が設定できないとするならば、そもそも裁判という場は、何を審議する場なのだろう。
死という問題に対する考えと、刑としての死ともまた違う位相に感じている。社会という位相で捉えられるほど、犯罪というものは社会的な象徴なのだろうか。僕は死刑を廃止する、存置すると言う立場の発生は、廃止という視点によって生まれたものだと思うが、他の選択肢はないのだろうか。死刑があっても、それが選択されず、被害者や遺族にとって、妥当な量刑が加害者側に与えられる状況があればいい話なのではないだろうか。
と、ちょっと書き途中で文章荒れまくってると思うけど、一旦ここで。