適当に思いついたことをだらだら書くブログ
日帰り温泉施設にて、浴場でスキンヘッドの男性を見かけましたが、ロビーで再び見た時には法衣をまとっておられました。ああ、この人、お坊様だったのか。そこで一句浮かびました。お坊様 袈裟を脱いだら ただのハゲ
結婚とは、猫を飼うようなものだ。可愛いから赦す。そう思えないのなら、最初から結婚などしないほうが良い。
私の視界のすみっこを、なにか黒いものがさっとよぎる。おや?と思ってそっちを見るが、目を凝らしても何もない。なんだ、目の錯覚だったか。しかしふと、傍らのニャンコを見ると、私が見ていたところをじっと見つめている。こんな時、ちょっと怖い。
私には霊感がない。幽霊など生まれてこの方見たことがないし、誰かが夢枕に立った等という事もない。しかし、ある年のお盆も終わるころ、亡くなった叔母が突然に夢に出てきたことがある。叔母は、小さな子供の手を引いて、緑の草が覆い茂る丘の上に立っていた。白いゆったりとした服が、風にゆっくりとなびいていた。叔母はまだ私が若い頃、51歳の若さでこの世を去っていた。もう十数年も前に亡くなった人がそこに居るのを見て、私は自分が夢の中に居る事を悟った。私は叔母に近付いて声をかけた。「これは夢だよね?これは俺の記憶の世界だよね?」叔母はにっこりと朗らかな顔を見せたまま、何も言わなかった。「すると、この子は誰?昔の潤子かな?」叔母の娘、つまり私にとっては従妹の潤子の小さかった頃を思わせる顔立ちをした子供だった。が、しゃがんで顔を覗き込むと潤子とは違う。「いや、違うな。一体誰?」私はしゃがんだまま叔母の顔を見上げたが、相変わらず叔母は顔に笑みを溜めたまま黙っている。さあね、当ててみな、と言っているような顔だった。うーん、誰だろう、と考えているうちに目が覚めた。目覚めた時、私の心は懐かしさで一杯だった。しかし、どうしてそんな夢を見たのか、まるで見当が付かなかった。その年、私は長年の独身生活に終止符を打って結婚することになった。披露宴には、普段疎遠になっていた潤子も来てくれて、子供を三人連れていた。その真ん中の、三歳児の女の子は、母親の潤子の小さい頃に特に似ていて可愛らしかった。そして私はあの夢の事を思い出した。あの時叔母が連れていたのは、まさしくこの子だった。後で考えてやっと合点がいった。叔母はお盆に娘の潤子の住む家に帰っていたに違いない。娘や孫達の様子を見届けたあと、あの世への帰りに私のところに寄り、可愛い孫を見せびらかしていったのだ。ひょっとしたら、当時結婚に躊躇していた私の背中を押すつもりもあったのかも知れない。叔母は、家庭を持つことの喜びや幸せを、あの満面の笑顔で私に伝えようとしたのではないか?後にも先にも、叔母が夢に出て来たのはその時限りである。
左利きには器用な人が多い、という人が居ますね。また、芸術やスポーツの世界で活躍している人に左利きが多い、などといってレオナルド・ダヴィンチや王貞治などの名前を挙げる人も居ます。そして、左利きの人は普通の人と違って右脳が鍛えられるから、特殊な能力が身に付くのだ、などと物知り顔で解説を加えたりします。しかし、本当に左利きの人には特異な才能が備わっているんだろうか?統計上でもそんなことが言えるのだろうか?左利きの私としてはどうも気になる。というか、身に覚えがないwその辺のところは、斉藤茂太(斉藤茂吉の長男で、精神科医)という人の本に書いてありました。「左利きの本」とかいう題名だったと思います。原書が手元にないのでうろ覚えですんません。茂太氏いわく、そのような生理学的な違いはないか、あっても些少な違いにしか過ぎないのではないか、とのこと。道理で、左利きでも凡人でいる人のほうが圧倒的に多いわけだ。私もそれを証明できる人間の一人です。ただし、彼は精神医学者の立場から、左利きの人が遭遇する特殊な人生体験が、その人の人格の形成に影響を与えている可能性は大きい、というようなことを言っていました。左利きの人には、だいたい共通の体験があります。それは矯正される、という体験です。私自身、幼少の頃の箸やスプーンの持ち方から始まり、学校に行く時分になると鉛筆の持ち方を厳しくしつけられた。習字なんかは絶対に左では書かせてもらえなかったしね。つまり左利きの子供は、世の中は右利きの文化なのだからそれに合わせて生きてゆかねばならない、という宿命を背負わされてしまうのです。矯正の度合いにもよりますが、場合によっては自分は不具者であると思い込む子供も出てくる。こうした左利きの人に共通の体験が、左利きに共通の性格を生み出すことは、確かにありそうなことだと思います。よく、長男坊(長女)的性格とか、末っ子的性格といったものが家庭での立場や環境から生み出されるように、左利き的な性格、なるものが自然発生的に形成されてしまうわけですね。例えば上記のような矯正を体験した子供は、引っ込み思案で慎重、ネバリ強い、優しい、協調性がある、といった性格に近づくのでないかということです。あるいは、そうでなければ、私のようなヒネクレ者になるとか…。もう一つ、左利きの人に共通の体験といえば、工夫することでしょう。世の中、何でもかんでも右利き用にできていますから、左利きの人は何をするにも工夫しなくてはなりません。私がJRの自動改札機の前でもぞもぞしているのは、決して私が田舎者だからではありません!改札機が左側にさえ付いていれば、さっそうとホームに出られるんです!この他にも自動販売機のコイン投入口や、電話・FAX、AV機器の本体およびリモコン、楽器、などなど、およそ非線対称のデザインの物はほとんど私にケンカを売っているようなものです。結局、左利きの人はその時その時で工夫して、左右の手を使い分ける、というような努力を強いられるわけです。そのおかげで、世の中は工夫しなくては渡ってゆけないのだ、というようなことを、体で覚えてしまうわけです。考えてみたら、普通のサラリーマンならともかく、芸術やスポーツの世界って、人と同じ努力をしていたのでは抜きん出ることはできない世界じゃないですか。そういう世界で左利きが目立っている、というのはこういう理由のあることなのかも知れません。まぁ、そんなことで、もしこれを読んでいる人の中で左利きのお子さんをお持ちになり、悩んでいる方がいらっしゃったら、もう少し長い目で見て気を楽にお持ちなさい、矯正はほどほどに、というのがその本のいわんとするところであり、左利きの私からのお願いでもあります。
パリのオタクなるものをテレビで見た。 青い目のガイジンさん達が日本のアニメヒーローのコスチュームを身にまとい、日本語のアニメソングを謳歌する姿ってのは…しかもパリで、ですよ。 日本のサブカルチャーがしっかりと外貨を稼いでいることを喜ぶべきなのだろうか、それにしても何だか日本の恥を さらしているような、何ともフクザツな思いで見ていたわけなんだが。 話によると、なにもフランスばかりのことではない。 イタリアや他のヨーロッパの国でも、もちろんアメリカでも、ポケモンやドラゴンボール、ガンダムといったジャパニメー ションが横行しているようだ。日本のサブカルチャーはどんどん根を伸ばしている。 オタクもいまやサケやスシに次いで世界共通語になりつつあるのだろうか。 しかし、考えてみれば、一頃西洋の芸術界に衝撃を与えた浮世絵だって、元はといえば江戸時代の日本のサブカルチャ ーだった。 当時の浮世絵 は今日のように美術品として扱われていたわけではなく、歌舞伎の人気役者のブロマイドだったり、カレンダ ーだったり、市井の民の生活にちょいと花を添えるような軽いものだった。 古い家屋を解体すると襖の下貼りに浮世絵が使われていたりするし、西洋に伝わったのも、日本から輸出される陶磁器の 包み紙に北斎漫画が使われていたから、という話もあるくらいだ。 今昔を問わず、日本はサブカルチャー大国なのかも知れない。(2007年)
古本屋で暇つぶしのために買ったSF小説、「ネアンデルタール」(ジョン・ダーントン著)恋あり冒険ありの安易なアメリカ製SF映画を見ているような展開で、別に感動するような本ではなかったけど、古人類学の知識がほとんどない私のような者が読むと驚きもあった。ネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルターレンシス)といえば、現世人類(ホモ・サピエンス)の遠い祖先くらいにしか思っていなかったが、この本によると我々とは共通の祖先を持つ、別種の人類だったらしい。30万年ほど前に地球上に姿を現し、ヨーロッパから中央アジアにかけて生息していた。そして我々の直接の先祖といわれているクロマニヨン人(ホモ・サピエンス)にとって替わられる3万年前までの間、20万年以上にわたって地球上はほぼ彼らの物だったと言っていい。クロマニヨン人がヨーロッパに姿を現したのが3~4万年前のことなので、この2種類の人類は数千年から1万年ほどの間、同じ地球上のほぼ同じ地域に共存していたと考えられている。両者のうち、なぜ片方が滅びたのか?両者の間にせん滅戦や混血はあったのか?両者の決定的な違いは何だったのか?古人類学者ならずとも興味は尽きない。ネアンデルタール人は我々よりも大きな脳と、やや寸詰まりながらがっしりとした骨格を持ち、集団生活を営み、道具を使い、原始的な宗教を持っていたといわれている。彼らは我々より遙かに劣った猿人間などではなく、ある時期地球の覇権を争ったライバルだったのだ。彼らが滅びた原因には様々な説が唱えられているが、私は、とりわけ脳の構造の違いが両者の差を広げたのではないかと思う。ネアンデルタール人の脳は、容積こそ現代人を凌駕しているが前頭葉の発達はそれほどでもなく、抽象的な概念を操るに不適切だったと思われる。大きな脳の大部分は運動機能や他のことに使われていたらしい。かたやホモ・サピエンスの方は発達した前頭葉を持ち、抽象的な概念を発達させ、それは言語による複雑なコミュニケーションを可能にしていった。互いの考えを交換しあい、作戦会議のようなこともできたはずである。ネアンデルタール人は、個体どうしや対小グループといった喧嘩ではホモ・サピエンスに勝てても、集団行動ではとても敵わなかったに違いない。そして彼らは居住地を次第に追われ、地球をホモ・サピエンスに明け渡していったのではないか。また、そう考えれば現代人の策略好きや戦争好きも頷けるのではないか。
札幌で会社勤めしてたころのこと、東京に用事ができて出張することになった。そこでついでに東京在住の弟に会おうと思い立ち、電話をしてみた。私 「で、仕事は金曜日の午後には終わるんだ。夜どこかで待ち合わせて飲まないか?」弟 「んー、金曜ならいいよ。で、どこで待ち合わせるのさ?」田舎者の私が東京で迷わずに行けるところは、上野の西郷さんか渋谷のハチ公くらいしかない。私 「んー、ハチ公で7時。」弟 「んー、渋谷かぁ。金曜の夜はごった返しているだろうしなぁ、わかるかなぁ。」私 「んじゃ、すぐにわかるように、先に着いたほうがハチ公にまたがってりゃいいじゃん。」弟 「あー、なるほど、それならすぐにわかるなぁ。さすが兄貴は頭いいなぁ。」私・弟 「あはははははは。」ともに30を過ぎた、バカ兄弟の会話である。
妻はまだ言葉を覚える前の赤ん坊のころに聴覚を失ったので、発音はうまくない。ある日、私が仕事から帰ってきて、自宅のテーブルで一杯やっていると妻が唐突にこんなことを言い出した。「めっかぶ、きてるよ。」ちょうどそのとき、私は冷蔵庫から賞味期限ギリギリの「芽かぶ」を引っ張り出してきて、酒の肴にしていたところだった。「ああ、芽かぶ、ね。(賞味期限)今日までだから、食べちゃってるよ。」「ちがうよ、めっかぶだよ。」「うん、これだろ。」「違うの、めっかぶだよ、めっかぶがきてるんだよ!」「何?違うの?これ、そうだろ?だってこれ、今日までじゃない?」「それじやなくって、めっかぶだよ、めっかぶの話!」「???」「…めっかぶっ!!」「????」どうも話がかみ合わず、会話をあきらめかけた頃、つけっぱなしにしていたテレビからニュースの映像が目に入った。成田空港に押し寄せる若き女性たち。人だかりの中から現れた、長身、甘いマスクの白人男性。ベッカムだった…。
北海道江別市に湯川公園というところがある。開拓農家の子孫の湯川という人が敷地を江別市に寄贈し、広い公園に作り変えられている。公園の中には屯田兵の家屋を再現した資料館があり、サイクリングのついでに立ち寄ったことがある。建物のなかには、ちゃんと説明員のおじさんが居た。そこは実にシンプルな造りの農家で、やや広い土間には、当時使われていた農機具なども再現され、展示されていた。それらをながめていると、説明員のおじさんが声をかけてきた。「そこにある農機具は、全て官給品です。」ほう、と相槌を打って続きを聞くと、農機具ばかりではなく、食料や薬、綿など、生活に必要なものはほとんど明治政府が支給してくれたそうである。説明員のおじさんが続けた。「ただし、政府からの支給を受けられるのは3年間だけだったそうです。」「つまり、3年で自給自足の体制を整えねばならなかったということですね?実際にそれは出来たんでしょうか?」「いえ、ほとんどが離農しました。そうせずに残った家も、借金を抱え、不作の年には娘を女郎屋に売ってしのいだり。そんな話は昔はザラにあったものです。」明治維新の後の廃藩置県によって、日本から大名というものがなくなった。そしてその大名から禄をもらって生活していた武士はいっせいに失業者となった。失業した武士は、兵隊になったり、警察官になったり、学のあるものは教師になったり、あるいは国鉄の職員になったりした。そしてまたあるものは、北海道に渡って荒地を開墾しながら国土の防衛にあたるという道を選んだ。これが屯田兵である。実は幕末あたりから、ロシアの船が頻繁に北海道に来ていて、領土を狙っていた。幕府の支配力は北海道までは及んでおらず、この地はただの未開の地だった。日本人の手により開墾された事実がなければ、この地を日本の領土として国際社会に主張することができない。そこで幕府は慌てて測量士を派遣し、北海道の実態調査から始めていたが、その途中で維新が起こり、幕府は解体された。幕府から政権を引き継いだ明治政府は、失業した士族や、農家・商家の次男坊以下の人たちを募集し、どんどん北海道に送り込んだ。ここは日本人によって開墾された土地であるという既成事実を作ることで、大国のロシアに対して領土権を主張しようとしたのである。それ故、彼らはただの農民ではなく、開墾しながら国土の防衛に従事する「屯田兵」と名付けられていた。こうした郷土史は、北海道の学校に通った者ならば一度は習うものだが、実際の屯田兵の生活がどんなものだったのか、あまり考えたことがなかった。無一文で開墾生活に踏み切るというのは、例えば自分がやってみようと思ったらいかに大変なことか。北海道民には聞きなれた、この「屯田兵」という言葉が、突如実感を伴って目の前に現れた。そんな気がした。
北海道に居たころ、私は地元の福祉関係の催し物に妻と二人で参加したことがある。福祉用品の展示コーナーのようなところで、Sさんはパソコンのシステムの説明員として静かに座っていた。私と妻が近づくと物音で気付いたらしく、「こんにちは、ちょっと見ていきませんか?」と声を掛けてきた。年配の男性で強度の弱視、ほとんど見えていないようだった。Sさんが紹介していたのは、盲人向けのワープロソフトだった。それは、自分の行ったキー操作をいちいち音声で確認してくれる仕組みになっていた。例えばエンターキーを押すと、「改行」という具合に音声が案内してくれる。もちろん、自分が作った文章や読み込まれた文章を音声で読み上げてもくれる。盲人にとって便利なようによく作られているな、と感心しながら私も触れてみたりした。Sさんは病気か何かで視力が衰え始め、40代の頃にはほぼ見えなくなってしまった。剣道が得意で、様々なところに出かけては、少年達に剣道の手ほどきをしていたが、それもあきらめざるを得なくなり、人前に姿を現すことも滅多にしなくなってしまった。さらには、聾唖者である娘さんとのコミュニケーションも難しくなってしまった。それまでは娘さんとは筆談で会話していたが、失明してしまっては娘さんの書いたものを読むこともできない。聾唖者の言葉は聴き取りにくいし、こちらが見えない場合は相手の手話や表情も伝わってこない。こちらが身振り手振りで何か伝えようとしても、それが相手に伝わっているのか、確かめる術もない。だから、盲人と聾唖者のコミュニケーションはとても難しい。両者の間で、健常者が通訳を務めない限り、まず会話にならないのである。実に気の毒な親娘といわざるを得ない。Sさんはこのワープロソフトに出会ったときに、これで娘さんとの筆談を復活させることができるかも知れないと思ったそうだ。剣道で培ってきた不屈の精神が、Sさんの中でむくむくと復活しだした。まずは自分で操作をマスターし、自分以上の機械オンチだった娘さんにも何とか基本的な操作を覚えてもらい、視覚障害と聴覚障害の壁を破って、ついに娘さんと直接会話することができた。何かと失望することの多かったSさんにとって、それは明るい希望の灯だったと思う。Sさんは、ただそのときの感動を伝えたくて、自分のパソコンを持ち込み、その展示コーナーに座っていたのだった。「世の中にはこんな便利なものもありますよ、だから決してあきらめないで。」と言いたかったのかもしれない。あるいはSさんは、盲人と聾者の架け橋になりたいとまで願いながら、静かにそこに座っていたのかも知れない。
衝動買いしてしまったPCゲームソフト 7,800円妻の呆れ顔 プライスレス…小遣いを使い果たしてキャッシング 10,000円妻のため息 プライスレス…一次会は居酒屋で 5,000円二次会はカラオケスナック 3,000円さらにもう一軒 4,000円終電を逃してタクシーで 3,000円しかも酔っ払って転んでスーツをクリーニング 1,000円妻のグチ …エンドレス!
本屋さんで何気なく手にした占いの本。「画数計算も、生まれ年や星座の確認も、面倒なことはいっさいありません。願い事を思い浮かべたら、えいっと、この本のページをどこでもいいから開いてみてください。」何ていい加減な占い本だろう。どうせ適当なことが書いてあるに違いない。こんなバカな占いが当たるわけがない。でも、ま、やってみるか。願い事を思い浮かべると、えいっ!そこに書かれていたことは…「水晶球によると、それは不可能ではありません。」意外にも、全くその通りだと感心してしまった。絶対に叶わない願いを思い浮かべる人など居やしない。死んだ人に会わせて欲しいとか、時間が遡りますようにとか、西から昇る初日の出が見たいとか、そんな願いにすがって生きる人がどこに居るか。思いつく限りの願い事を考えてみたところで、せいぜい金持ちになりたいとか、人から認められるような人間になりたいとか…絶対に不可能な願い事など、まず思い浮かばない。本人の努力次第でどうにでもなることばかり。ただ一歩も踏み出さずに、願い事を願い事のまま、目標にも到達点にもせずに放って置いているだけじゃないか?こんな子供じみた本に気付かされ、勇気付けられるとは、思ってもみなかった。
今から二十数年前の話。当時は私も弟もまだ独身で、私は地元(札幌)の企業に就職し、弟は東京の会社に就職していた。盆休みに弟が帰省してきたので、我々兄弟は北海道東部の根室までドライブ旅行に出かけることにした。根室は、北海道に生まれ育っていながら、我々兄弟がまだ行ったことのない町だった。根室といえばカニだ。というよりも、はじめて訪れた根室は、札幌や札幌近辺の都市と比べると恐ろしいほどの田舎で、カニしかない町だった。ビジネス旅館のようなところに宿をとり、近くの寿司屋でズワイやタラバなどのカニ寿司で腹を満たし、翌朝は朝市で両親の土産にカニを購入することにした。朝市には大小さまざまなカニが並んでいた。私は弟と3~4千円くらいずつ出し合って、そこそこのカニを買って帰るつもりだったので、7~8千円くらいのカニが並んでいるあたりをウロウロしていたのだが、弟は何を考えているのやら、明らかに1万円以上はすると思われる、巨大なタラバガニが並んでいるところから離れようとしない。私 「おい、そんなに高いカニは不相応だよ、こっちのヤツ買って帰ろう。」弟 「だってさ、せっかく根室まで来たんだよ。たまにの親孝行なんだから奮発するべや。」私 「こっちので充分だって。見栄張るなよ。」弟 「いや、絶対にこっちのほうがいい。こんなところでケチるなよ、この親不孝者。」私の希望は聞き入れられず、弟は、自分が7千円出すから、といって、勝手に1万2千円のタラバを購入してしまった。さて、家に帰ってから新聞紙に包まれたタラバを開けてみると、なるほど立派なもので、両親はたいそう喜んだ。弟は得意げに、弟 「兄貴ったら、せっかく根室くんだりまで行ったっちゅうのに、安物のカニでいいなんて言い出すんだぜ。結局俺がほとんど(金を)出してこれにしたさ。この、親不孝者。」私 「あのなぁ、見栄張るのもいいかげんしろよ。だいたい帰りにガソリンスタンドで割り勘しようとしたら、金持ってないって言ったのはどこのどいつなんだよ(笑)」母親がまぁまぁ、と間に割って入り、いったいいくらだったのかと聞き、弟が値段を言うと、母 「そりゃ大変だったろ。文無しじゃ大変だろうから、あたしも出すよ。」といって財布から万札を出した。弟ときたら、悪いね、なんていいながらちゃっかりポケットにしまい込んでいた。いったい、あいつの言う親孝行とはどういうものなのだろう…。
独身のころは、仕事で帰りが遅くなったりすると、もう家に着いてから何をするのも面倒になることがよくあった。家に酒があっても、おかずの用意や後片付けが面倒でたまらない。それでそんなときは、よく家の近くにある焼き鳥屋に寄ったりしたものだった。ある日のこと、縄のれんをくぐってカウンターに席を取り、おしぼりで顔の汗をぬぐっていると、ふとある貼り紙が目に付いた。貼り紙「迷子の小鳥ちゃんを探しています。 セキセインコで、下の図のような色をしています。 ピーコちゃん、と呼ぶと返事をします。 (以下、セキセインコの絵、連絡先など)」私 「ねぇ、マスター、あの貼り紙は…?」店主「ああ、開店直後に珍しくご婦人が見えましてね、これを貼らせてもらえないかって。 なんだか本当に困った様子で断れなくってねぇ。」私 「しかし、ここは焼き鳥屋…その人、わかってるのかねぇ…。」店主「あはは、それもそうですね、あまり深く考えなかった。 でもそのご婦人、頼みごとを聞いてもらうだけじゃ悪いからって、持ち帰りの焼き鳥を たくさん買っていってくれたんですよ。」私 「うーん、そうですか。その人は2重の意味でよほど鳥が好きなんだな。 かわいがってよし、食べてよし…。」やりとりを聞いていた常連客たちから笑い声が漏れた。常連客「マスター、ひょっとして今焼いている鳥、どこからか紛れ込んできたセキセインコ じゃないだろうね?」今度は狭い店中が笑い声につつまれ、和気あいあいと夏の夜は更けていった。しかし、「小鳥ちゃんを探しています」の貼り紙のすぐ脇で、常連客達に笑顔を振りまきながら鳥を焼く、その日のマスターの姿。まるでシュールなヒトコマ漫画のように私の脳裏に刻まれて、頭を離れない。
山形市内に、「元祖ジンギスカン」の看板を掲げる店がある。山形で生まれ育った妻はここがジンギスカン発祥の地であると信じているようだが、ジンギスカン帝国ともいわれる、北海道出身の私としてはどうも納得がいかない。本当にここが元祖と言えるのか?そもそも、ジンギスカンのルーツは何なのか?北海道が発祥の地なのか?ネットで調べてみると次のようなことが分かった。・明治時代、羊毛は厳寒地用の軍服の素材に欠かせなかった。ところが第一次世界大戦 時に輸入が途絶え、政府は大正7年(1918年)に羊毛の自給を目指す、「綿羊百万頭画」(ストレートでいいネーミングだ)を開始、北海道の滝川や札幌の月寒など、全国5箇所に種羊場が開設され、そこで羊肉の活用の研究も合わせて進められた。・ジンギスカンの命名者は札幌農学校出身で、満州建国に深く関わった駒井徳三氏といわ れている。日本軍の旧満州進出にからみ、羊肉を使った中華料理のコウヤンロウをヒン トにして料理法が編み出され、大陸的な響きをもつ「ジンギスカン」の名が付けられた らしい。・そして昭和11年に、食肉商の故松井初太郎氏が、東京都杉並区に日本で初めてのジンギス カン専門店、「成吉思荘」を開き、著名人や政治家の間でもてはやされた。その当時で一 回の食事に5千円を費やすという高級料理だったらしく、主に政治家や著名人の接待に使わ れていた。・北海道で爆発的に広まったのは、この「百万頭計画」も忘れ去られた戦後のこと。そのころ にはニュージーランドから羊肉の輸入が再開されていて、羊肉が安価で手に入ったこと、ネ ーミングが北海道の雰囲気に合っていたこと、北海道産のジャガイモや玉ねぎなどと相性が 良かったことが原因として考えられる。ジンギスカンが編み出されたのは随分昔のようだが、各地で広まったのは戦後の事。食糧事情の悪かった頃の日本人を救ったのがニュージーランドの羊肉だったと言えなくもない。元祖ジンギスカンのお店は岩手県や広島県などいろいろなところにあるそうだ。結局、その地で最初にジンギスカンを提供したお店、ということなのだろう。
ウチの母親(飢餓世代)と話していると、この死語の世界に引き込まれる。「帳面に書いてあるから…。」 ノートと言わんかいっ!「ちりしとっておくれ。」 ティッシュのことか?「そのシャツはコテかけなきゃだめだべさ。」 もしかしてアイロンのことならウチにもあるからご心配なく。「ライポン買ってきておくれ。」 らいぽん!!…(絶句・汗)あのな、母ちゃん。そんなことばっかし言ってると、そのうち誰ともコミュニケーション取れなくなっちまうぞ。恐るべき、死語の世界。