世界遺産 新原奴山古墳群と宗像三女神の神籬

世界遺産 新原奴山古墳群と宗像三女神の神籬

世界遺産の新原奴山古墳群と宗像三女神の神籬の記

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「令和・れいわ」

万葉集 巻五にある、神亀から 天平年間にかけての数年、筑紫歌壇を形成した大宰帥・大伴旅人、少弐・小野老 、筑前国守・山上憶良 、造観世音寺別当・沙弥満誓、 娘子児島、大伴坂上郎女などらによる梅花の宴三十二首の詞書から。

筑紫由来の元号と相なりもうした。
まことにめでたく、誇らしき仕儀に相成り候

画/菱田春草「猫梅」

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「令和・れいわ」

万葉集 巻五にある、神亀から 天平年間にかけての数年、筑紫歌壇を形成した大宰帥・大伴旅人、少弐・小野老 、筑前国守・山上憶良 、造観世音寺別当・沙弥満誓、 娘子児島、大伴坂上郎女などらによる梅花の宴三十二首の詞書より

筑紫由来の元号と相なりもうした。


画/尾形光琳「紅白梅図」
【宗像三女神の織縫神としての文献上の記述】

★三女神親神・須佐之男神による「忌機屋(聖なる機織り屋)」への悪戯についての神話(古事記・高天原誓約の段)

★大国主神と宗像三神の一、タギリヒメ神の子、ソトオリヒメ神が兄のアジスキタカヒコネ神を唱う歌唱に「機織り」が出て来る(古事記・天孫降臨の段)

★宗像社境内末社、縫殿神社の祭神・兄媛渡来説話(日本書紀 応神四十一年)

【宗像三女神の織縫神としての神事・遺物・史跡】

★宗像沖ノ島祭祀を継承したものがあるとされる伊勢神宮祭祀に、「神御衣祭」(かんみそ祭・毎年、四月・十月に新たに織った絹と朝の布帛を奉る)が伝わる。

★沖ノ島黄金谷より「金銅機織雛形」が出土

★宗像氏族墳墓・新原奴山古墳群在の奴山集落への縫殿神社鎮座

★同縫殿神社は元、新原奴山古墳群中の22号墳上に在った。

★新原奴山古墳群近接の弥生時代住居跡から紡錘車など織縫関連の遺物の出土

★宗像社境外末社に幟を織ることで戦勝を導いた説話を創建縁起にもつ織幡神社がある

※画像/伊勢神宮・神御衣祭 御料 (神宮HPより)

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『元治二年沖島渡航記事』(1864)原千里 参照
★幕末福岡藩、沖ノ島在番撰定
「渡航記事」で原千里は、大島へ渡航後、一週間の潔斎と神語、つまり、島中では使用を禁じられた言葉に代わる忌語の習得を命じられている。
 なお、千里は、藩内の十組中、最近三カ年のあいだに親族の忌がない組から三名を一組として選ばれ、その後、住吉宮・宮司・横田紀伊守による神籤によって千里の組に決まった。

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図/奥村玉蘭・筑前名所図会「大島鯨組図」
【勝浦峯ノ畑古墳出土と沖ノ島21号遺跡出土の同型鏡資料】
『沖ノ島祭祀遺跡の再検討2』小田富士雄福岡大学名誉教授

①21号遺跡の祭壇復元を検討して報告書を訂正。
②勝浦峯ノ畑古墳と21号遺跡の同型鏡から、同古墳被葬者が21号祭祀に関与したことを推定。.1

さらに推定ではあるが、沖ノ島21号遺跡と伝えるほぼ完形品1面の同型鏡18)が知られていることは看過できない(第11図2)。

これが確かであれば、勝浦峯ノ畑古墳と沖ノ島21号遺跡は同型鏡
を分有している点できわめて注目すべきこととなろう。ここに至って改めて上述した沖ノ島21号遺跡発見の獣文帯冝子孫獣帯鏡についても再考すべき段階になった。.17

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【貝原益軒『筑前国続諸社 縁起 澳津島御事略書』】
延宝七年(1679)~ 正徳元年(1711)に成立

★祭主:神職・河野四郎右衛門代 大島在
秀吉九州平定戦後の頃は河野氏が年三度渡島。祭祀
「(宗像)氏貞の縁者、皆者、皆取集め、浪人し、毛利家に仕へ、其子孫、只今毛利どのの御内に、草刈太郎左衛門とて居候。知行六百石かたまはるよし承候、彼者所に、三社の祭事、其外萬の旧記、長持ニ、持伝へ申よしなり」

「寛永十六年より以来、国主より島守を置玉ふ、足軽三人、水主四人、大島より役夫二人、凡九人、かはかはる(替わる替わる)来る、五十日を以て限とす、送りの舟は大島より二艘出す」(筑前国続風土記)

在番五十日交替

★禁忌:不言の禁・不持出の禁・忌語

★禊:十七日垢離 垢離七度



【青柳種信『瀛津島防人日記』】
寛政六年(1794)

★祭主:神職・河野四郎右衛門 大島在
「神主は恒例の祭りに仕へ奉るとて、島に渡るなり」/「沖ノ島在番は百日間」百日交替

★禁忌:不言の禁・不持出の禁・忌語

★禊:風待ちの大島で毎日「禊」、船出の日を占う/沖の島上陸後、七日間「禊」て後「正三位社(志賀の神を祭るといふ)にまゐり」八日目に「大神の宮にまゐる」/毎朝、「禊」。「正三位社にまゐることは其の後も日々に同じ」「大神の宮には、常にみだり参ることなし、神威を恐れてなり」



【原千里『元治二年沖島渡航記事』】
元治ニ年(1865)

★祭主:神職・河野伊豆守 大島在
「宮司他、社人若干、藩士三名、舵取一名、水夫三名、炊事方二名ら渡島/「沖の島浜津宮駐勤百日御竃当りの旨」百日交替

★禁忌:不言の禁・不持出の禁・忌語

★禊:住吉社にて藩士中から渡島者を占出/志賀島・志賀神社巡拝語、大島へ渡海。一週間斎戒するとともに沖の島神語習得。辺津宮・田島社参拝、契祓。その後、沖の島へ渡海

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                青柳種信「三雲出土銅剣・銅戈図」






【豊後石垣原合戦大友方将で討死の宗像鎮続とは誰なのか】
 画/前田青邨 「義家知伏図」                  
大友の将にして「宗像」姓を名乗る宗像鎮続の出自については謎です。そのことについてFB上で問いを投げかけたところ、お友達「髙橋 誠也」さんから示唆に富む、以下のコメントを頂きました。

麻生鎮氏こと宗像鎮氏か
永禄二年に許斐山を攻め落とした麻生鎮氏(後の宗像鎮氏/清田註)は、宗像氏の一族で大友を頼り大宮司職を盗ろうとしていたといった話もあります。                         

宗像氏貞の正室は宗麟の養女で臼杵鑑速の娘、氏貞の妹色姫は道雪の側室ですし大友との縁は意外とあります。             

私も推測しかできませんが、麻生鎮氏こと宗像鎮氏の子か弟と考えるのが自然でしょうか。続の字は、山田事件の頃氏貞派と対立し英彦山に逃亡した、元大宮司の宗像氏続から採ったのかもしれません。   

★暗殺された、氏続の子千代松
宮若市の山口で暗殺された、氏続の子千代松が生きていて大友に保護されたという可能性もあるのかな…少し行けば大友領内ですし。年齢は氏貞の4つ下ですので1549年生まれ?             

★氏男と菊姫に国丸
また、氏男と菊姫に国丸という中国に隠された子がいたという話もありますのでこの国丸が大友に保護され、宗像鎮続となった可能性も考えられますね。国丸が実在したのであれば氏続の孫にあたります。千代松よりも幼いでしょうから1550~53年生まれ?宗像鎮続自体が情報が少なすぎるので仮説がいくらでも立てられてしまいますが…   

★大友派の宗像の氏族
大内滅亡から毛利の九州侵攻までの間は大友に従属していましたから、4コメ(※)で清田様が書かれているように大友派の宗像の氏族で大友家臣になった人物の可能性もあります。鎮氏がそれにあたりそうですけども。

1532年に許斐城に侵攻した宗像氏延を思い出したので検索したら、
宗像鑑久 (*~1533)民部少輔。筑前国人領主。一万田親敦の息、一万田鑑相の弟。大友義鎮に謀反の疑いありと誅殺される。 という人物が見つかりました。一万田氏なのに宗像?

《豊後国 大友義鎮(宗麟)の家臣団》
http://1st.geocities.jp/tugami555syou/syouichi46.htm

(※)清田コメント
宗麟か、その父の義鑑の時代に宗像氏庶流の一家が大友へ帰参します。その末が鎮続だろうと思います。大友としては北筑前の名族の名跡が加わることになり都合がよいことだったのだろう、な、と理解しています。


【Susumuチャンネル】
●○許斐神社が関わる宗像大社祭礼

★五月 五月祭 三~五日

三日   第一宮にて小五月祭(五月会試楽大神事/正平年中行事次第)
     流鏑馬・芸能

四、五日 五社神輿行幸(五社神輿行幸五月会試楽大神事/正平年中行事次第)浜殿へ

五社とは宗像三宮・織幡社・許斐社
許斐社神迎え 大宮司代官祝詞禰宜出向 五日早朝から近郷神人、命婦、笛・太鼓などの行列を持って大一宮境内中殿に入御。第一宮・第二宮・第三宮神輿と合流、神事斎行
許斐社は宗像一族が司る社として賑々しく行幸。

伊摩社・浪折社を従え織幡社が到着し五社神輿が浜殿に行幸、神事斎行
全祭を終え、神輿は還御。正平年中行事次第には亥刻とある。

中殿神事「御供下行」 御供分配は第一宮・第二宮・第三宮・許斐社で織幡社にはない。
許斐の読みは「こひ」


★八月 方丈会 十三~十五日

・十三日 初日 
「市渡り神事」(終日終夜/正平年中行事次第)大宮司館浮殿へ許斐社神輿行幸 

許斐社への献饌後、大宮司、束帯から木賊色の狩衣に衣替、神賑わいの余興(舞楽・一つ物・行事練り歩き・諸郷の者の奉納相撲、夜に入り華やかに着飾っての田楽・延年・猿楽・)は十五日の方丈会神事の事前の演習として許斐神の前で披露される。

・十四日 
五社神輿行幸五社神輿行幸五月会試楽大神事/正平年中行事次第)浜殿へ
五社行幸後、献饌。(浜殿神事/正平年中行事次第)
第一宮社殿に参進、五社御神体を本殿に安置、神事(息酒肴神事)。
寅刻の間に御神体を神輿に移し酒肴を尽くす(乙本)

・十四日 
船くらべ(船闘神事/正平年中行事次第)
左舞 鳥 右舞 蝶の雅楽で神事開始。五社に模した五艘の船が競う。乙本では許斐船が勝利し神官が祝うとする。
方丈であるため一つ物・行事行列・相撲など芸能が催される。
久末酒肴(乙本)清酒神事正平年中行事次第)とする直会


★九月 御九日大神事(重陽の節句から派生)
・九日  第一宮 神事
・十一日 織幡社(応永神事次第十日)・許斐社小社的原社小城大明神神事
 大宮司、狩衣で参列。舞楽・神楽・相撲・流鏑馬。厳重神事という収穫祭・労働の慰労。
 的原社・織幡社では経供養。
 

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的原神社・境内末社

許斐山頂「王子社」さま

ご祭神は、三女神さまの親神・須佐之男命さま。宗像社さま唯一の直祭境外摂社さまとのこと。麓の的原社には、澳津宮・多紀理比売命さまの御子神・味耜高彦根命さまが鎮座。興味深い。


占部氏居城・許斐山跡としては、堀切跡・水の手(金魚池)など確認でき、中世山城跡を知るのに良い教材。

中腹には大友の将・麻生鎮氏(重氏と案内板にあるが間違いらしい)墓もあった。

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王子社と頂遠望

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許斐山城水ノ手/金魚池

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山頂近くの堀切跡

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中腹の麻生重氏(正しくは鎮氏)墓


~ 麻生鎮氏 ~

宗像郡八並邑の許斐山中腹に「麻生重氏墓」とある墓碑が在った。
重氏は間違いで、麻生鎮氏のことだという。大友義鎮から偏諱を受け鎮氏となった。
永禄二年(1559)己未九月二十五日、立花鑑戴、奴留湯融泉ら大友軍が宗像を襲
う。その陣中に麻生鎮氏は加わっている。
この合戦は宗像側の大敗で、棟梁・宗像氏貞、重臣・占部尚安らは城を棄て、大島に奔った。
翌年三月。宗像側は逆襲に立つ。許斐城に夜襲を掛け、守る麻生鎮氏を討ち果たす。


中腹には大友の将・麻生鎮氏(重氏と案内板にあるが間違いらしい)墓もあった。

宗像大社「古式祭」
例年師走半ば祭行。
三女神さまとの神人共食のお祭りです。

神祭は午前六時より お膳を頂く御座は午前六時半より
御座券は午前五時より 初穂千円で分けられます。

この年の神祭りは、神錆びた仮殿にて行われます。

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