レオン失踪の理由
次の日早速、以前から懇意にしている医者を尋ねた。
その医者はアンナを見ると、嬉しそうに顔をほころばせた。
「いやぁ、久しぶりですね。お元気でしたか?あなたはますます美しいですね。」
「こんにちは。ご無沙汰しています。」
「今日は何かご相談でもあるのですか?まさかどこかお具合でも悪いですか?」
「いいえ、そうではないんです。実は知り合いで重い心臓病に罹っている方がいて、でも、病院が分からなくて。私、どうしてもその方が入院なさっている病院を知りたいんです。」
「あれ、ご存知なかったんですか?」
「え?それはどういう意味です?」
「いえ、以前あなたのご主人が同じことを聞きに来られて、だから、お教えしましたよ。」
「主人が?いつのことですか?」
「もう数ヶ月も前のことですが。てっきりあなたもご存知かと思っていた。」
「それで、病院はどこですか?」
「ここからは随分と遠いですよ。」
医者はアンナにその病院の地図を渡してくれた。今すぐにでもレオンに会いたかった。
でも、なぜ夫は妹さんの病院まで調べたのだろう。ふと、先日の仕事仲間と食事をしていた時の会話を思い出した。-どこかのお金持ちが妹さんの手術代を出してくれたってー
そうだ、きっとそれが夫に間違いない。でも夫はどうして不倫相手の妹の手術代など出したのだろう。夫に聞くしかなさそうだわ。
アンナは家に戻ると、夫の書斎のドアを開けた。
「あなた、お話があります。レオンの妹さんの手術代を出したのはあなたでしょ。」
「・・・。そうか、知ってしまったのか。君には話たくはなかったんだが。」
「どういうこと?どうしてあなたが・?」
「話すほかなさそうだな・・・。一年ほど前から君は少し様子が変だった。どうも落ち着かないし、いつも上の空。幾らなんでも、僕だって気が付いたよ。それに、君は僕が抱きたいと思っても、全く応じなくなった。それで、何かが君の周りで起こっていると思っていた。でも、君がまさか浮気をしているとは思っていなかったが・・・。
そんなある日、仕事絡みでの知り合いに町でばったり会った。ほら、君も覚えているだろう。レストランの開業10周年のパーティーで司会を引き受けてくれた奴だ。彼はどうも君のことをはっきりと覚えていたようだ。数ヶ月前に君が男と寄り添って歩いていたのを見たらしい。僕にそれをわざわざ言おうとは思っていなかったようだが、偶然にも僕に会って、野次馬根性で僕に忠言したというわけだな。彼は君にご執心だったようだから、僕を痛めつけたかったのだろう。笑いながら話していたよ。僕は自分でも信じられないような嫉妬を覚えた。それで、君の身辺調査を探偵社に依頼したというわけさ。君に直接聞いたら、君は別れてくれと言い出すに決まっている。僕にはそれが怖かったからね。それで、君の付き合っている相手はレオンというピアニストだと判明したわけだ。彼の演奏も聴きに行ったこともある。僕がとても嫉妬したのは、君が彼のピアノで歌うということだ。僕には到底入り込むことはできないからね。」
夫は一挙に話をした。結婚してからこんなに夫の言葉を聞いたのは久しぶりだった。夫はアンナを見据えて、また語りだした。
「それで、妹さんの病気のことも知ったわけだ。それも、緊急に手術をしないと命はないということだ。僕は、彼の仕事場を訪ねた。そして君と別れてくれるのなら、妹さんの手術代を払うと言ったんだ。」
アンナは目を伏せた。彼はそれを承諾したというわけね。
「彼は一瞬考えただけだったよ。次の日すぐに金を受け取ったというわけだ。まぁ、彼の気持ちも分かる。何しろ、幼い頃に両親に死に別れて、妹と肩を寄せ合って生きてきたそうだ。だから、妹さんの命を選ぶのは当たり前のことだ。僕もそれを百も承知でその話を持ちかけたんだ。だから、君に言っただろう。彼は君が思っているような男じゃないって。だから、君が彼のことをどんなに想って待っていても、彼は君の前に決して姿は現さないよ。」
アンナは、何も考えることは出来なかった。
「それから、もう一つ言っておく。妹さんの病院を訪ねて彼に会おうとしても、それは無駄なことだ。彼との契約では、もし君と因りを戻したら、手術代は全て利子を付けて即刻返済してもらうことになっている。そんなことになったら、彼は一生借金に追われる身になるだろうな。アンナ、もう二度と彼に会おうとしないのが、結局は彼のためだぞ。」
アンナは絶望の深遠に落ち込んだ。私がレオンに会ったら、本当に返金を要求するだろう。もう二度と彼には逢えないということなのか。
「あなた。妹さんの手術代を払ってくださったことは感謝しています。でも、どうして私のことをそこまで縛るの。私たちの間にはもう愛情は残っていないはず。それなのに、なぜ・・・。」
夫は黙っていた。アンナもじっとその沈黙に耐えていた。そして、その恐ろしいように長く感じた時間の後、夫がこう言った。
「アンナ、どうして僕が君と別れないのか、その理由が本当に分からないのか?」
「ええ、その通りよ。」
「アンナ、君にプロポーズをした時のことを覚えているかい?」
「そんな話、今聞きたくないわ。」
「僕は君に傍にいてほしい。君を愛する気持ちはまったく変わってはいないんだ。」
「そんなの、嘘だわ。私が他の男のものになるのが、癪に障るだけ。自分のものを取られるのが嫌なだけだわ。私たちが、今まで本当に愛し合って、労わりあってきた夫婦だと本気で思っているの?そんなの信じられないわ。」
「それじゃ言わせてもらうが、君はこの数年来、僕に結婚当初のように甘えてくれたことはあるか?君は美しい。いつも毅然として決して他人には弱みを見せない。それも、他人に対してだけならいいだろう。しかし、夫の僕にもいつも君は頑なな態度を取り続けてきた。僕が君の愛をどんなに欲していたのか、君には分かるまい。」
アンナは夫の言葉を聞いて、考えた。確かに夫に甘える可愛い妻ではなかった。でもそれは、夫が望まないことだと思ってきたからだった。いつも完璧でなければいけないと、心に言い聞かせてきたのだ。それに、夫の心が自分に向けられているなど、そんな考えも持たなかった。ただ一緒に暮らしているだけ、夫も同じだと思ってきた。
「私だって、結婚当初はあなたを愛していた。でも、私はいつも一人ぼっちだった。あなたが私のそばにゆっくり居たことなんかなかったわ。だから、私はあなたにはもう愛人がいて、私に興味なんか無くしていたと思っていた。つまり私たちはすれ違いの夫婦というわけね。」
「アンナ。もうこれ以上離れ離れでいるのはよそう。仕事を頑張ってきたのも、君にいい生活をさせたい一心からだった。君に寂しい思いをさせたことは謝る。すまなかった。だから、アンナ、お願いだから、僕のそばにいてくれないか・・。」
アンナはそういう夫の言葉がどうしても信じ、受け入れることができなかった。しかし、今は夫と夫婦の問題を話し合う気にはなれなかった。
「とにかく、話は分かったわ。少し考えてみたいの。」
「ああ・・・。分かった。」