私の両親は私が9才の時、別居

10才の時に離婚しました。

離婚と同時に、兄と妹は父の処へ

私と弟は母の処へ、別れ別れとなり姓も別、別々に生きることに…


生まれた時から一緒だった人達が居なくなるということは、とても辛く悲しいことでした。

3日ぐらい続けて、真っ暗な公園、真っ暗な海岸で妹を探し続けるという夢をみたものでした。


昔ですから親が離婚したことで、イジメられた事もありました。


私は5才下の弟の面倒をみることは当たり前、その為に引き取ったと母から云われました。


父には次の奥さんが居たので兄も妹も大変だったと想います。


中学生になると同時に、母の仕事の都合で僻地へ行くことに...

そして、教員住宅に住むことに…

着いたその日に教頭先生から

「明日から牛乳配達してください」

って、何のことやら、どうしていいのやら分からなくて…でしたが断れるものでもなく

翌日から毎朝、雨でも嵐でも吹雪でも休むことなく3年間続けました。

今では、あれをさせて頂いて良かったと思っています。

私の宝です✨️


中1からは毎日のように母からの虐待が酷くなりました。


母は外では朗らかな人ですが、家の中ではというか兄妹弟にも見せない、私にだけ別の顔になりました。

「茶碗を洗え!」と云われ

私が「ちょっと待って」と云い終わらないうちに、叩くものを持って、狭い家の中を逃げる私を追いかけて叩く。


「お前なんか- お前なんか-」「父親にそっくりな顔して憎たらしい」「お前なんか父親の処へ行け、代わりに妹を連れてきたい」「お前なんか大っ嫌いだ」「可愛くない」


家の中ではいつもイライラ、ヒステリックで、私にストレスを発散させていましたね。

私が「お母さん」と云っても無視されることは普通のことで、こんなことが中3の秋まで続きました。


ある時、友達に母のことを話ました

「母が継母なら良かった」と云ったのを、その人は自分のお母さんに話し

そのお母さんが母に……

母からコテンパンにやられました。

それからは人に云わなくなりましたね


私の救いは日記でした。

3年間毎日書いていましたね

(殴り書きで、母に見られても大丈夫なように)


私は自分のことを

信用されない人間

必要のない人間

価値のない人間

理解されない人間

愛されない人間

と思うようになっていました。


そのうち、毎日、死ぬことばかり考えるようになり、どうやって死のうか?と考えてばかりでした。

死にたいより、死んでやる!!!という思いだった。

実行できませんでしたが

やはり、恐くて出来ませんでした。

✨️死なないで居てくれてありがとう


中3の秋頃、初めて母に口答え「どうして私ばかりにこんなことをする!!」と

返ってきた言葉が信じられない言葉だった

「お前なんか、殴っても蹴っても、血も出ないし、ケガもしないからいいんだ!!!」と


私はその時、自分の感情がサーっと、冷めていくのを感じました

何とも云えない感情です

淋しさも、悲しさも何にも無いんです

この時の事が、私が母から離れる決心をするキッカケになりました。


後、私は母の元を離れ、寮生活をしながら仕事と学校という道を選択しました。


何故?母は私をそんなに憎いのか?

たくさん考えましたね。

母から愛されない私…という構図が…

ずーっと、引きずっていましたね。

(こんな辛い経験も自分が生まれる前に設定してきたことなのですね!)


✨️あるチャネラーさんから云われたこと


・私があまりにも父親に似ていたこと

・自分の別れた夫と娘である私を一緒に見てしまっていたことが母を苦しめていたと

・お母さんを許してあげましょう……


『私は十分、頑張った!エライ!スゴイ!誇りだよ!私はキラキラと輝いているよ!愛してるよ!ありがとう!』

✨️あなたがいたから今の私がいます、ありがとう✨



長くなりました、最後まで読んでいただいて、感謝いたします。ありがとうございます。