少し更新が滞ってしまいました。なかなか気分が落ち着かない日々のため。まぁそれはそれとして、今日も行きましょう!
子供が聞こえないと分かってから、まぁいろいろあって手話で育ててみようと思い立ち、それから手話を覚えながら子育てに勤しんでいるわけです。
我が家では親が聞こえる、子供が聞こえない、ということで、いわゆる「デフファミリー」ではないです。
デフファミリーっていうのは、親も子も聞こえない家族のことを指すようで。正確な定義は知りませんが、おおよそそういう理解で間違っていないかと。
でも手話で子育てをしているとデフファミリーと接する機会も多く、いろいろと違いも感じたりするわけです。
一番違うなーと思うのは、世の中の捉え方が親と子で違うか同じ立場で捉えられるか、ということでしょうか。
例えば、手話通訳に対する感じ方や考え方。デフファミリーでは多分手話通訳に対して、親も子も同じように感じ、同じように捉えるのだと思います。でも親が聞こえるとなると違う。だって聞こえる親は、それまで聞こえる人として生きてきているわけで、生活に通訳が必要な場面は基本的にないわけですよ。だから通訳に要求することも、評価基準もおそらく聞こえない人とは違う。
手話通訳が下手でまともに通訳してもらえないことはよくあるんですが、そんな場面でも聞こえる親は「聞こえる」ので、その通訳がどの程度イケていないのかが如実に分かるし難しい手話を通訳しようとしていることもよく分かります。でも聞こえない親は「聞こえない」ので通訳場面で存在する言語は手話だけになります。だからその手話がどの程度イケていないのかは、通訳された手話を見ることでしか分からない。もし聞こえるのであれば耳から聞いた言葉がどの程度手話になってるかが分かるけど、聞こえないとその比較ができない。
逆に、比較できてしまうがゆえに手話通訳に同情してしまう感情もあったりしますけど、聞こえない親は多分そういう感情はないんだろうなぁ。通訳が下手な通訳には容赦ない。
例えば学校とかで通訳がいない場面に出くわすと、どうしようもなかったら聞こえる親は多分自分で通訳してしまうでしょうけど、聞こえない親は自分も聞こえないから通訳を準備しない学校を責めるとか。
どっちが良い悪いじゃないけど、まぁデフファミリーとは違うわけですよ。
他にもいろいろ違いがあります。生活様式もそうだし、周りからの目というか位置付けというか扱いというか。一番アレだなぁと思うのは、子供が聞こえなくて手話で育てていると妙に教育熱心だとかエッジな感じに思われることが多いことですかね。このあたりはまた別の機会に。
それでは。チャオ!