桜の息吹
桜の花がほぼ満開になろうとしていた。それと同時に、母の命も、静かにその終わりへと向かっていた。
「そろそろ桜を見せてくれるかん。」
母は穏やかな声で言った。85歳の母——痩せ細った体、透き通るように薄くなった肌。その言葉は決して大きくはなかったが、私たち兄妹の心の奥深くまで届くような響きを持っていた。
私と妹は目を合わせた。母を庭へ連れ出そう。
私たちは統合失調症を抱えた兄妹だった。精神の波に飲まれながら、それでも今日まで生きてきた。それでも、母にとって私たちはただの「子供」であり続けた。
母の人生最後の桜。
それを見せてやりたかった。
***
兄がそっと母の腕を支えながら、ゆっくりと歩き出した。私はその横に寄り添い、足元に気を配りながら進む。春の風はまだ冷たかったが、庭には確かに春の息吹が満ちていた。
桜の木は、ほぼ満開になりつつあった。淡いピンクの花が枝いっぱいに広がり、風に揺れるたびに、ほんのりとした香りが漂ってくる。
「やっぱり、綺麗ねえ。」
母は微笑みながら言った。その瞳は、遠い記憶の中を旅しているようだった。
***
母にとって、桜は特別な意味を持っていた。
「私が小さい頃ね、祖母が毎年桜を見せてくれたのよ。」
そう言って、母はゆっくりと桜の花びらに視線を向ける。
「祖母は言ってた。桜はね、満開の時がいちばん綺麗だけど、散る時もまた美しいのよって。」
母の声は少しずつ、過去へと溶け込んでいくようだった。
***
私たち兄妹は、静かに座り込んだ。母の隣に並び、同じ桜の木を見つめる。
風が吹いた。花びらがふわりと舞い上がり、母の手の甲にそっと降りた。
母は、その花びらを指でなぞりながら言った。
「この桜が見れてよかった。」
その一言に、私たち兄妹は涙をこらえることができなかった。
***
春が終わるころ、母は静かに息を引き取った。
庭の桜の木は、次の季節へ向かって、また新しい命を紡ぎ始めていた。
母の最後の桜は、私たち兄妹の心の中に、永遠に咲き続けるだろう。