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辺野古の活動家に生徒を託した教師の罪

 

 辺野古のヘリ基地反対運動を行っている船に、平和学習の一環として乗っていた、京都の女子高校生が、船の転覆によって命を失いました。波浪警報が出ていたにも関わらず、定員ギリギリや定員オーバーの状態で海に出た責任は、船長にあると思います。しかし、責任は船長だけでなく、辺野古での抗議船学習を選んだ教師たちにも、当然大きな責任があると思います。

平和学習とはなんでしょう。本来の学習の目的は「戦争の悲劇を学び、平和の尊さを理解し、それを維持するために自分たちができることを考える教育活動」のことのようです。そうであれば、「歴史的事実の継承」(沖縄戦や原爆、ホロコーストなどの凄惨な歴史を、資料館の見学や体験者の講話を通じて正しく学ぶ)、「共感と倫理観の育成」(犠牲者の痛みを知ることで、他者の尊厳を重んじ、暴力を否定する心を養う)、「国際理解と対話」(紛争の原因を学び、対立を武力ではなく「対話」で解決する方法を考える力をつける)が目的となります。しかし、辺野古での学習は、抗議船に実際に乗って体験することでした。これは、多くの点で、平和学習を大きくいる脱指しています。

 辺野古での抗議活動は、ヘリ基地反対運動です。ここを見学するにしてもどうして辺野古に基地が作られようとしているのか、その問題点と時代的流れ、建設側と反対派双方の言い分を学習してきたのでしょうか。そして、それが戦争とどう関わるかを十分に学習してきたのでしょうか。それ以前に、沖縄戦という戦争の歴史を学んできたのでしょうか。戦争というものは、どういうものかを、沖縄戦から学んでから来ているのでしょうか。そう考えると、辺野古での抗議船に乗る学習は、「歴史的事実の継承」「共感と倫理観の育成」「国際理解と対話」のどれにも当てはまらず、かなり飛躍したものだとわかります。

 また、平和学習であれば、多くのコンセンサスの得られたこと、結論のでたものを学ぶべきです。辺野古の基地反対は、進行中の出来事であり、結論もコンセンサスも得られていない事案です。これを学ばせるということは、教師が正しいと判断し、それを生徒に押し付ける行為だと思います。教育には、教えることとの距離感が必要だと思います。客観的な視点がないとバイアスが入り込み、正しい判断を曇らせます。教育者であれば、それを十分考慮した、バイアスのかからない教育環境を提供するべきだと思います。そういう意味では、辺野古での抗議船の乗船は、非常に大きなバイアスのかかった環境だったと思います。

教師には熱意が必要だと言われているようです。しかし、その熱量が、個人の強い信念やイディオロギーから生まれる時、教師はそれを生徒に押し付け、強制しようとします。この行為を行えば、もはや教師ではなく、活動家です。教師は、「複数の視点を提示し」「判断は生徒に委ねる」「 距離を保つ」ことが必要です。それに反して、活動家は、「特定の立場を強く支持し」「共感や参加を促す」「結論の方向性がある」という大きな違いがあります。この辺野古でのカリキュラムを策定した教師が、活動家だったかどうか、厳密に判断するのは難しいという意見もありそうですが、姫百合の塔や平和の礎、シムクガマなどを選ばずに、抗議船を選んでいれば、活動家と断定してもいいと思います。

イディオロギーや信念、宗教などは、強制や誘導ではなく、自分で見つけるものだと思います。そして、教育はその前提条件、知識や視点を整える役割を担っているのだと思います。教育の役割は、社会で生きるための最低限のこと(道徳)を教えることであり、多様な視点を提示することだと思います。そして、そのような教育を受けることによって、価値観は自分で見つけ、正しさも自分で考えられるようになるのではないかと思います。大切なのは、教育では「完成形」を与えず、価値は身づから見つけるものだと思います。

辺野古の事故から見えてくる教育は、教師や学校の価値観を子供達に押し付けている実態が見えてきたような気がします。教師は、一般人と同じく、本来は愚かであり、未成熟な存在です。子供達に、正解を与えられるほどの人間ではありません。それは、どんな人にでも言えることですが、今回のような逸脱した教育を行うことは、教師が過信という罠にはまりやすい職業だからかもしれません。日本国中の教師が、もう一度自分を見つめ直してくれればいいと思いますが、それは期待しすぎだと思います。同じ過ちをこれからも続けると思います。それが教師だからです。