明治2年5月11日は、新暦の6月20日。土方歳三が箱館で討死した日。命日です。

 

 

新暦に替わったのが、明治6年元日からとなりますが、

旧暦の明治2年5月11日・歳三の命日は、新暦では、6月20日にあたります。

歳三の最期の時、また市村鉄之助が脱出したのもそんな季節だったので、

函館に居ると、より肌で感じられることと思います。

 

一昨年は、碧血碑慰霊祭140年記念で、館長が“歳三の姉の子孫”として招待され、僕も函館に行きました。とてもいい季節でした。

 

歳三の命を受け、市村鉄之助は箱館五稜郭を脱出、船の中で出航を待つこととなります。出航したのが新暦の6月23日頃ですかね。

中島登の記録には、市村鉄之助、行方不明とあります。

 

数日かけての航行で、6月末に横浜に着いたのでしょう。

到着後、間もなく質屋に立ち寄ったという記録があります。

当時、目的地に行くのも簡単ではない筈です。身を潜めながら佐藤家までやってくるとなれば、数日は要すると思います。

 

佐藤家に着いたのが、新暦の7月3日との説があります。

この時期は梅雨の真っただ中。

鉄之助は、歳三の命を受けて持ち運んだ遺品・・・写真、遺髪、刀、書き付け・・・

「使の者の身の上 頼み上げ候 義豊」

いつもの署名、土方歳三ではありません・・・

そして戦況を伝える手紙は書いていませんでした。

 

 

賊軍となってから、筆まめだった歳三が、そこから手紙を一切出さなくなりました。

父母のように慕った彦五郎やノブに、いらぬ嫌疑がかかってはならないと、証拠に残る手紙を書けなかった。何をやらせても、そつなく出来た歳三は彦五郎、ノブへの配慮も忘れませんでした。

北へ向かう会津、仙台、箱館。もっと手紙を出したかったことでしょう。そんな歳三の気持を考えると可哀想だったなと思います。

歳三の一番大切な身内への心遣いは、市村鉄之助に伝言としてもたらされました。

 

「われ、日野佐藤兄に対し、何ひとつ、恥ずるべきことなきゆえ、どうかご安心を」

 

 

旧暦と新暦、その年によって、多少の誤差が生じます。

例えば、歳三が生れた天保6年、この年の5月5日は、新暦で云うと5月31日となります。

 

歳三の命日は、東京(当時、多摩辺りは神奈川県)では梅雨の時期だったなんて考えてみて、当時へ思いを馳せるとより実感できるかもしれません。

 

旧暦と新暦を調べて、あの時は現在ではこんな季節だったのだな~なんて考えてみると、おもしろいものです。

 

当家は、歳三のすぐ上の姉、のぶの直系の子孫にあたりますが

弟思いだったのぶでしたので、市村鉄之助から歳三の戦死を知らされた時のことを思うと、可哀想でなりません。

歳三の冥福をお祈りいたします。